・物語に陶酔する
物語に陶酔する。福永が作るのはストーリーの建築物である。登場人物は影絵のようなものだ。結構がシルエットを際立たせることで、登場人物は普遍性を帯びる。
絢爛なタペストリーを思わせる短篇集である。『鳥 デュ・モーリア傑作集』に匹敵する作品といってよい。作風も似ている。読み比べてみるのも一興であろう。
デュ・モーリアの「モンテ・ヴェリタ」に対し、福永の「未来都市」と「飛ぶ男」は同じ光を放っている。まるで宝石のように。SF的手法で宗教的な世界を描き出しているのも同じだ。
――しかし動機なんて、何の役にも立ちませんよ。現代は死ぬための動機に充満しているんです。そういう時代なんです。問題は、生きるための動機を見つけ出すことで、死ぬための動機じゃありません。
――生きるための動機なんかあるものか、と最初の男が怒鳴った。我々は生きているんじゃない、生き【させられて】いるんだ。だから死ぬ権利だってある筈(はず)だ。(「未来都市」)
絶望した画家が「自殺酒場」という飲み屋に入る。アルコールが客の心に火を放つ。男達は吐き出すように生と死を語り出す。
その時だった。塑像のようにじっと僕等の前に立っていたバアテンが、初めて重々しく口を開いた。それは幾分嗄(しわが)れた、深い地の底から轟(とどろ)いて来るような声だった。
――死にたければ、特別のカクテルをつくりますよ。
客の中で一番悲しむ人が少ない者が選ばれた。主人公の画家だった。バーテンは淡々と更に語った。
――死が終りとは限っていない、それはひょっとしたら初めかもしれないでしょう。それは虚無ではなくて希望かもしれませんよ。
バーテンのニヒリズムに満ちた言葉は限りなく甘い。そして死へと誘(いざな)う。「僕」は杯を呷(あお)った。気がつくと未来都市へ案内されていた。
ここから神話的な展開となるのだが、科学と政治が進歩しきった世界が描かれている。そこは哲学者が君臨して、社会全体が完璧にコントロールされているユートピアだった。
主人公が選んだ自由は、芸術家特有の放埒(ほうらつ)さがあって、とても思想的に評価できる代物ではない。それでも自由を考える手掛かりになっている。現実世界では生きる気力を失った「僕」が、虚構世界では本能の命ずるままに生を燃焼させているのも面白い。
ユートピアが象徴しているのは「死」であった。とすると、酒場で毒杯を呷る一瞬の心理を物語化したと考えることもできよう。現実を否定した「僕」が、肯定し得る現実(ユートピア)をも否定するのだ。
崩壊するユートピアと、そこから逃げ去る主人公。ここでまた二重の構造が描かれる。ただし、酒場では死へと向かった方向性が、ここでは生へと方向転換をしている。
すまん。まとまらなくなってきた(笑)。
「飛ぶ男」はもっと不思議な小説だ。意識と肉体が乖離(かいり)しているのだ。重力を感じる肉体と、それを上から見下ろす意識が描かれている。
しかしドアは再び金属的な響きと共に閉じ合される。一人だ。そしてエレヴェーターは落ちて行く。撃たれた鳥のように、隕石(いんせき)のように、落ちて行く。
その瞬間に意識が止る。意識が二分される。一つは彼の魂、それは動かない、それは落ちない。それは依然としてあの高さ、8階の高さの空間の中にある。その鳥は依然として空中を飛ぶ。その隕石は依然として宇宙空間の中にある。もう一つは彼の肉体、それは動く、それは落ちて行く。エレヴェーターと共に烈しく落下する。撃たれた鳥のように、隕石のように。その二つとも彼だ。彼の意識は二つに分れ、その距離が見る見るうちに遠ざかる。垂直に。(「飛ぶ男」)
スゲー文章だわな。何も書く気がしないよ(笑)。透明感を湛(たた)えた文章が死に向かって転落してゆく。そうでありながら上昇する物語なのだ。
ウーム、まとまらない。もう一度読む必要がある。まったく太刀打ちできない(笑)。
最後に付言しておくと、「写真家」(デュ・モーリア)と「影の部分」も異様なエロティシズムが酷似している。
・宗教的ユートピアを科学的ディストピアとして描く/『絶対製造工場』カレル・チャペック
・人類の戦争本能/『とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ