古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

ロゴス宗教、テキスト宗教のドグマ/『生きる勇気』パウル・ティリッヒ

 友岡雅弥著『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』で紹介されていた一冊。


 パウル・ティリッヒは理性を重んじ、自律を説くことでキリスト教の思想的沃野を広げた人物のようだ。宗教を「究極の関わり」と定義した。


 ここで問題が発生する。その究極が外(あるいは天)を目指すのか、それとも内(あるいは深奥)に迫るのか? 大雑把にいえば前者がキリスト教で後者が仏教ということになろう。


「初めに言葉(ロゴス)ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった」(ヨハネ福音書)。


 ウーム、「ロゴス」を調べてから既に1時間が経過。有り体にいえば「言葉」とか「理法」との意味であるが、反意語はパトス(情念、感覚)ではなかったのね。ミュトス(空想、物語る言葉)だってよ。ロゴスから物語性へと展開しようと思っていたのだが、敢えなく失敗に終わった。弱ったね。


 よし、じゃあこうしよう。私が書く文章において「ロゴス」は「説明原理」としておく。logic(論理)との整合性も含まれるから都合がいい。


 そもそも、初めに言葉があるわけがない。当たり前だ。言葉が存在するためには、発声器官と大気が必要なのだ。真空で音は伝わらない。ってことは、それらが存在する空間が大前提となる。神よ、私の勝ちだ。あんたの負け。さ、金を払ってもらおうか(笑)。


 パウルティリッヒキリスト教のドグマ(=ロゴス)に支配されている。

〈勇気〉という概念のなかには、神学的、社会学的、哲学的内容が一つに結び合わされている。これほどまでに人間状況を理解するための鍵として適切な概念は、あまりない。勇気というのは、まず第一に、倫理的概念ではあるけれども、それは人間実存の全領域にかかわるものであり、また、その根は、存在自体の階層にまで到達している。それを倫理的に理解するためにも、それは存在論的に考察されねばならない。
 このことは、勇気に関する哲学的論究の最も古いものの一つであるプラトンの対話篇『ラケス』において、あきらかに示されている。この対話が進む過程で、勇気の概念を定義しようとするいろいろな試みがしりぞけられていく。それから、有名な将軍ニキアスが、一つの定義を下そうとする。彼は軍事的指導者として、勇気とは何であるかについて知っているはずであり、そしてまたそれについて語ることができねばならない。ところが、彼の定義もそれまでの定義と同様に満足のいくものでないことが分かるのである。もし勇気とは、彼が主張するように「何を恐れ、何を敢えてなすべきか」を知る知識であるとすれば、勇気の問いは、ある普遍的な問題に変わるのである。というのはそれに答えうるためには「いかなる状況にあっても変わることなく何が善であり何が悪であるかそのすべてについて知識をもって」いなければならないからである。だがそうするとこの定義は、勇気とは徳の一つの部分であるとする前提に矛盾してくる。「したがって」とソクラテスは結論する、「われわれは勇気とは本当に何であるかを定義することに失敗したのだ」と。このことは、ソクラテス的思惟の枠内ではきわめて重大な断念である。というのは、ソクラテスにおいては徳とは知であり、勇気の本質についてその知がないということは、勇気の真の本質との合致において行為することをも不可能ならしめるからである。しかしながらこのソクラテスの失敗は、見かけでは成功しているかのような多くの定義──プラトンアリストテレスのものをも含めて──よりも、もっと重要な意味がある。というのは、勇気を他のいろいろな徳のなかの一つの徳として定義することがうまくいかないということこそ、人間実存のもつ根本問題を開示するものだからである。そのことは、勇気を理解するためには、その前提として人間および人間世界の理解、それらの構造や価値の理解が先行せねばならないことを示しているのである。これらの前提的理解をもっている者のみが、肯定すべきものは何か、否定すべきものは何かを悟るのである。


【『生きる勇気』パウルティリッヒ/大木英夫訳(平凡社ライブラリー、1995年)】


 勇気は概念に非ずというのが私の考えだ。勇気は行動されるべきものであって、説明を必要としない。その意味で「ためらわれた勇気」は存在しない。なぜなら彼(あるいは彼女)が躊躇(ちゅうちょ)した理由は、勇気の是非にではなく周囲の視線や評価の計算に由来しているためだ。すなわち勇気とは反射神経であり、無意識領域から湧き起こる即座の行為である。


 勇気とは否定である。当然とされる常識、伝統的な価値観、誰もが疑おうとしないルールに「ノー」を突きつけ、人間に寄り添う振る舞いである。パウルティリッヒは勇気の標本を作ろうとしていたのだろうか? それは「死んだ勇気」だ。


 厳しい生き方を選択するのが勇気である。険しい尾根に向かう登山家に言い知れぬ感動を覚えるのはそのためだ。勇気とは「冒(おか)す行為」なのだ。


 キリスト教はロゴス宗教でありテキスト宗教である。「初めに言葉ありき」とは、人間を聖書に隷属せしめようとするプロパガンダにすぎない。


 人の一生を振り返れば一目瞭然だ。生まれたばかりの赤ん坊に言葉はない。キリスト教原理主義者の一部にはDNAを言葉と解釈する者もいるようだが、DNAは遺伝情報であって言葉ではない。


 ロゴスは神の存在証明を目的としている。概念、理論、原理への強烈な指向は、姿の見えない神を信じさせるための努力なのだろう。そう考えると大乗仏教もロゴスの匂いがプンプンしている。


 人間は言葉に生きる動物であるとされている。これも嘘だ。3分の1は眠っているし、1日の大半を我々は無意識で過ごしている。言葉に支配されているのは会話をしている時か、ものを考えている時だけだ。


 荘厳な夕日を見つめる時、ロゴスは不要だ。美しい光景を言葉で説明することは不可能だ。ここに言葉の限界がある。


 きっとパウルティリッヒはロゴスが支配するキリスト教世界に風穴を空けようとしたのだろう。時代を開く新しい扉はこれほど重いのだ。


 キリスト教のドグマを断ち切るためには、唯名論から諸行無常へ持っていった方が早そうな気もする。


ロゴス中心主義
はじめに言葉ありき
哲学とは何か
キリスト教異端 聖書の歴史
キリスト教について


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