古本屋の覚え書き

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ヴェーバーが読み解くトルストイ思想/『職業としての学問』マックス・ウェーバー

 あまり面白くなかった。多分、ゆっくりと時間が流れる時代だったのだろう。薄っぺらいから読めたようなものだ。


 一番興味深かったのは、トルストイに触れた部分である――

 トルストイは、かれ独特のやり方でこの問題に到達している。かれの頭を悩ました全問題は、結局、死とは意味ある現象であるかないかという問いに帰着する。かれはこれに答えて、文明人にとっては――いなである、という。なぜかといえば、無限の「進歩」の一段階をかたちづくるにすぎない文明人の生活は、その本質上、終りというものをもちえないからである。つまり、文明人のばあいには、なんぴとの前途にもつねにさらなる進歩への段階が横たわっているからである。


【『職業としての学問』マックス・ウェーバー/尾高邦雄訳(岩波書店、1936年/岩波文庫、1980年)】


 フム、するってえとトルストイ(1828-1910年)の旦那は進歩主義に頭を痛めていたってわけだな。凄いもんだね。トルストイが亡くなったのは明治43年だよ。日本人はといえば、ちょんまげを切って、どっぷりと進歩の湯船に浸(つ)かっていた頃だ。


 ちなみにマックス・ヴェーバー(1864-1920年)はトルストイより36歳若い。


 私の勝手な思いつきだが、中世に止(とど)めを刺したのは、やはり産業革命であったと思う。ヨーロッパを席巻した魔女狩りの終焉と産業革命の始まりが共に18世紀である、というのが最大の理由だ。


 文明の進歩は技術の発達となって大衆消費社会に向かって歩(ほ)を進めた。多分、魔女狩りという血のカーニバルから目を覚ましたことで、教会と科学の距離を保つことができるようになったことだろう。中世の科学者は一様に魔女の存在を信じていた。そして、いかなる科学的事実の発見も魔女狩りの熱狂を冷ますことはできなかった。


 トルストイは明らかに人類の未来を見据えていた。進歩の行き着く先を見極めようとしていた。進歩がはらんでいる無限性は、実は六道輪廻を意味しているのだ。大衆消費社会の到来は人々の欲望を解放したが、物が豊かになればなるほど我々の幸福は貧しくなってゆく。


 進歩は欲望とセットになっている。人生は有限だが、進歩と欲望は無限だ。つまり、満たすことのできない欲望を抱えてしまったがために、我々は幸福になれなくなったのだ。人生の意味は進歩と相対化して卑小な部分とならざるを得ない。

 しかるに、文明の絶えまない進歩のうちにある文明人は、その思想において、その知識において、またその問題において複雑かつ豊富となればなるほど、「生きるを厭(いと)う」ことはできても「生きるに飽く」ことはできなくなるのである。なぜなら、かれらは文明の生活がつぎつぎに生みだすもののごく小部分をのみ――しかもそれも根本的なものではなく、たんに一時的なものをのみ――そのつど素早くとらえているにすぎず、したがってかれらにとっては、死はまったく無意味な出来事でしかないからである。そして、それが無意味な出来事でしかないからして、その無意味な「進歩性」のゆえに死をも無意味ならしめている文明の生活そのものも、無意味とならざるをえないのである。――こうした思想は、トルストイの作品の基調をなすものとしてかれの後期の小説にはいたるところにみいだされる。


「生きるに飽く」とは、生の泉を飲み干すことである。「厭うことはできても、飽くことはできない」という指摘は重要だ。つまり、部分化された生はその内部においても相対化されるという二重の相対性を示している。


 生は流動化し気化する。生は溶解し無化する。当然のように死も軽くなる。生と死は消費の海に埋没する。これは何も大袈裟なことを言っているわけではない。例えば小泉改革のもとでオリックス宮内義彦が労働者派遣法改正(2004年)を推進したが、これは労働力を市場原理に委(ゆだ)ねたも同然で、労働者の奴隷化といっても過言ではない。ま、元々労働というのは人類に与えられた神の罰なのだよ。


 有意味と無意味の間で生と死が揺れている。トルストイは作家であったから、やはり物語性の呪縛から自由になれなかったのかもしれない。意味という言葉は大体において「社会に対して有用」と使われる。これ自体が産業構造を利する考え方だ。


 我々現代人は、南の島で裸で過ごしている人々や、アメリカ先住民の智慧などから学ぶ必要があると思えてならない。生というのは本来、もっと単純なものだろう。進歩に毒されていない彼等は笑みを湛(えみ)えつつも、ニヒリズムの匂いを放っている。彼等は生きる意味を問わない。なぜなら彼等は現実に生きているからだ。生の泉を飲み干した彼等は、大自然の生と完全に連なっている。