古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

私たちは何をすべきか? 何から始めるべきか?/『ザーネンのクリシュナムルティ』J・クリシュナムルティ

 同時代に果たしてこれほど世界を駆け巡った人物がいただろうか? 思想や宗教が人間の本質をわしづかみにすると国境を越えて広まってゆく。普遍性は言語や文化を超越して「人間の共通項」を炙(あぶ)り出す。エゴを支えているのは差異への執着だ。真実を叫ぶ一人の声は、やがて人類を照らす光となる。


 クリシュナムルティはスイスのザーネンで毎年夏に集中講話を行った。本書は25年間にわたって開催された最後の夏期国際講習会の講話が収められている。1985年の夏のこと。


 初日にクリシュナムルティはこう話し始めた――

 もしよければ、私たちは日々の生活を気づかう、真面目な人間の集まりだということを指摘したいと思います。私たちは、信念、イデオロギー、仮説、理論上の結論や神学上の概念には何の関心もないだけでなく、誰かに追従する集団である宗派を興そうとしているのでもありません。私たちは、願うに軽薄ではないつもりですし、むしろ世界で起きていることや──あらゆる悲劇や惨憺たる苦悩や貧困──それに対する私たちの責任について、共に気づかっています。
 また、あなたと私、つまり話し手は、共に歩み、共に旅をしているのだということも、指摘したいと思います。上空1万メートルを飛ぶ飛行機に乗っているのではなく、静かな道を、恐ろしいテロ行為、無目的な殺人、脅迫、誘拐、ハイジャック、殺害、戦争を目にする世界のいたるところに伸びている果てしない道を、歩いているのです。しかし、私たちはあまり気にかけているようには見えません。私たちが懸念し、心配し、恐れたりするのは、これらの事件がごく身近で起きたときだけです。事件がはるか彼方のものであれば、いっそう無関心になるのです。
 これが世界で起きていることです──経済的分裂、宗教的分裂、政治的分裂、そしてあらゆる宗教的、宗派的分裂。世界はおびただしい危険や災難に満ちています。未来において、私たちだけでなく子どもや孫たちの生涯においても、何が起こるのか見当がつきません。全世界が重大な危機に瀕しています。そして、この危機は外部にあるばかりでなく、私たち一人ひとりの内部にもあります。もしあなたがこのようなことに少しでも気づいているなら、この問題に対する各自の側の責任とは何でしょう。人は自分自身に頻繁に問いかけたに違いなかった──何をすべきかと。どこから始めるべきでしょう。各自が自分自身、自分の充足、自分の悲しみ、自分の苦悩、経済的な苦闘、その他もろもろのことにかまけています。けれども、私たちが住むこの恐ろしい社会と向き合ったとき、私たち一人ひとりは何をなすべきでしょう。各自が自分自身のことにかまけているのです。どうしますか。祈りの言葉を何度でも繰り返しながら神に祈りますか。それとも、どこかの宗派に属し、どこかの導師(グル)に従い、世の中から逃避し、中世風の衣や、現代的な一風変わった色の衣を身にまとうのでしょうか。僧侶のように、俗世間から完全に身を引くことができますか。(1985年7月7日)


【『ザーネンのクリシュナムルティ』J・クリシュナムルティ/ギーブル恭子訳(平河出版社、1994年)以下同】


「世界の危機」は「人間の危機」であった。「外部の危機」は「内部の危機」であった。


 それにしても見事に世界をスケッチしている。一対一の対話に徹した彼は、人々に共通する苦悩や葛藤を鋭く見据えてた。


 世界を語る人は多い。エゴイズムを平和で糊塗しながら政治的、経済的な覇権を争う目的で世界は語られる。大体の場合において、世界を口にするのは発展途上国から搾取している側のリーダーだ。そして彼等が示す世界とは、領土侵犯的なものであり、地政学的リスクの大小であり、軍事的・貿易的な利得に絡んだものである。政治は必ず人間をコントロールする対象と見なす。これが権力の本質だ。


 一人の力は弱く、大衆は無気力に取りつかれている。「どうせ……」と呟いた瞬間に、我々は単なる労働者や兵士となって権力者に利用される存在と化す。世界は相変わらずのままだ。いや、自分のため息やあきらめが小さな波動となって世界の劣化に拍車をかける。


 私はゴミとなり、砂粒となり、アトムとなるのだ。可もなく不可もなく、いてもいなくてもいい存在になり下がる。人間は透明化して消えかかろうとしている。


 私に何ができるのか? 私は何をなすべきなのか?

 新聞で読んだことや、ジャーナリストや小説やテレビの話などではなく、このすべてを見、直接観察するとき、私たち一人ひとりに課せられた任務や責任とは何でしょう。
 すでに言ったように、あなたを楽しませようとか、あなたが何をすべきかを──私たち一人ひとりが何をすべきかを──教えようとしているのではないのです。政治的、経済的、宗教的な指導者は大勢いましたが、彼らは【まったく】救いようがなかったのです。彼らには彼らなりの理論や方法があり、彼らに従っている何千もの人々が世界中にいます。彼らには、ローマカトリック教会が所有する富だけでなく導師(グル)が所有する富をも含めて、じつに膨大な富があります。すべては金銭に帰すのです。
 そこで、もし尋ねてよければ、私たちは共にどうしたらよいのでしょう。または、一人の人間としてどうしたらよいのですか。はたして、私たちはこのことを問題にしているでしょうか。それとも、自分のために何か特別な満足や喜びを探し求めているのでしょうか。私たちは宗教的な、または宗教以外のある種の象徴に縛られていて、その象徴の背後にあるものが助けてくれるだろうと願いながら、それにしがみついているのでしょうか。これはとても深刻な問題です。そして、この問題は、今日さらにきわめて深刻なものになりつつあります。というのも、戦争の脅威と、まったくの不確実性が存在するからです。


 確かに既成の権力や既成の宗教、既成の概念が世界を変えたことは一度もなかった。ただの一度もだ。世界や人間の共通原理を打ち立てることは可能かもしれないが、複雑化した社会に多様な価値観がある以上、一つの思想が世界を席巻することは考えにくい。政治的な世界統一も、やや陰謀論じみている。緩やかな枠組みを堅持しながらも、細分化しているのが世界の現状だろう。


 世界には争いが絶えない。政治、経済、科学、文化、宗教といったあらゆる次元でぶつかり合っている。そして我々は生まれながらにしてこれらに条件づけられているのである。


 私は日本人だ。すると日本の国益は私にとって望ましいことだが、他国にとってはマイナス益になる。相対性の連鎖の中で損得勘定に支配されているのが我々の人生だ。「すべては金銭に帰す」――。


 クリシュナムルティは初日の講話で自己認識の重要性を説いた。そして、「パターンを壊す」「言葉なしに見つめる」「悲しみに終止符を打つ」と展開していった。


 少なからず彼の声に耳を傾ける人々はいた。しかし世界は耳を貸さなかった。そして5年後の1990年に湾岸戦争が勃発した。