古本屋の覚え書き

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思考の終焉/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 ・あらゆる蓄積は束縛である
 ・意識は過去の過程である
 ・思考の終焉

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ


 蓄積は不自由であり、知識・経験は過去の亡霊である。経験は「私」によって構成された物語である。美しい黄昏(たそがれ)に心を奪われる時、人は忘我の境地となる。発見・感動は「我を忘れさせる」。そこに過去は介在していない。圧倒的な現在が刻々と流れ通う。そして、対象と自分とが完全に一体化する。


「私」という意識は思考する。思考することで「私」にしがみつき、「私」を強化する。「私」は「思考」である。

「では何が知恵なのですか?」
 知識がないときに知恵がある。知識は連続性を持っている。連続性なしには、知識はない。連続性を持つものは、決して自由ではありえず、新たなものではありえない。終りを持つものにのみ自由がある。知識は、決して新たではありえない。それは、常に古いものになっていく。古いものは、常に新たなるものを吸収し、そしてそれによって力を得ていく。新たなるものがあるためには、古いものがやまねばならないのである。
「言い換えれば、あなたは、知恵があるためには思考が終らねばならない、とおっしゃっているわけですね。しかし、いかにして思考を終らせたらよいのですか?」
 いかなる種類の規律、訓練、強制によっても、思考の終焉はない。思考者は思考であり、そして彼は、彼自身に作用を及ぼすことはできない。作用するとしたら、それは単なる自己欺瞞にすぎない。彼は【即】思考であり、彼は思考と別個のものではない。彼は、彼が異なっていると思いこみ、似ていないふりをするかもしれないが、しかしそれは、それ自身に永続性を与えようとする思考の狡猾さにすぎないのだ。思考が思考を終らせようと試みるとき、それは単にそれ自身を強めるにすぎない。どうあがこうと、思考はそれ自身を終わらせることはできない。このことの真理が悟られるときにのみ、思考は終わる。あるがままの真理を見ることの中にのみ自由があり、そして知恵は、その真理の知覚である。あるがままは決して静止的でなく、そしてそれを受動的に注視するためには、あらゆる蓄積物からの自由がなければならない。


【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


 凄い……。「知識の否定」は「連続性の否定」であった。連続性とは運動である。以前、「24時間戦えますか?」とサラリーマンに問い掛けたコマーシャルがあったが、24時間は可能であっても240時間は無理だ。我々は睡眠を取らないと生きてゆけない。つまり、永久機関は存在しないということだ。水飲み鳥もいつかは止まる。物質の世界には必ず摩擦が生じる。運動は減退せざるを得ない。


 古代ヒンドゥー教バラモン教)では、自我の深層を司る真我(しんが/アートマン)は宇宙の根本原理であるブラフマンと同一であると説いた(梵我一如)。ここにおいて「我」(が)=「私」は限りない連続性を伴って肥大し続ける。すなわち、永遠性ってやつだよ。


 これをブッダは完膚なきまでに否定した。「諸法無我」と。つまり、「私」という存在は錯覚なのだ。意識と思考とが捏造(ねつぞう)した影に過ぎない。そして我々は思考という連続性でもって影の実体化に余念がないというわけだ。


 日蓮は不変真如(ふへんしんにょ)の理を迹門(しゃくもん/影の意)と位置づけ、随縁真如(ずいえんしんにょ)の智を本門とした。理は知識であり、智は智慧である。不変真如の理には「焼」の義が、随縁真如の智には「照」の義があり、「煩悩(ぼんのう)の薪(たきぎ)を焼いて菩提(ぼだい/覚り)という智慧の火が現れる」と教えている(「御義口伝」〈おんぎくでん〉)。


「私」に終止符が打たれた刹那(せつな)に智慧は発動する。だが、それは無意識から湧いてくるものではない。なぜなら、無意識(阿頼耶識〈あらやしき〉)とは意識の表層に上らない条件づけであるからだ。歴史や社会を始めとする外界から働きかけるありとあらゆる条件づけは、緩やかなプレッシャーとなって人々の意識を加工する。意識は常に条件づけという重力に支配されているのだ。


 クリシュナムルティの思想は完全にブッダと一致している。つまり、「生きる」とは「死ぬ」ことなのだ。連続性の否定とは、過去を死なせることである。なぜなら、過去が生きている間は現在が死んでしまうからだ。ここに知識と智慧の決定的な違いがある。


 生死不二(しょうじふに)――。生は死であり、死は生である。死は恐れるべきものではなく、生は執着すべきものではない。永遠は彼岸には存在しない。それは現在という瞬間に存在するのだ。クリシュナムルティが説いているのは「一念三千の法理」(一瞬の生命に三千の諸法が具わっているとする法理)であった。