古本屋の覚え書き

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意識は過去の過程である/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 1』J・クリシュナムルティ

 ・あらゆる蓄積は束縛である
 ・意識は過去の過程である
 ・思考の終焉

『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

「経験なしに、いかにして知恵がありうるでしょうか?」
 知恵は知恵であり、知識は別物である。知識は、経験の蓄積である。それは、経験の継続であり、すなわち記憶である。記憶は養われ、強められ、形作られ、条件づけられる。しかし、知恵は記憶の延長だろうか? 知恵は、連続性を持つところのものだろうか? われわれは、知識を、長い間の蓄積を持っている。然るにわれわれは、なぜ賢明で、幸福で、創造的ではないのだろうか? 知識は至福に資するだろうか? 知ること、すなわち経験の蓄積は、刻々の体験ではない。知ることは刻々の体験を妨げる。経験の蓄積は連続的過程であり、そして各々の経験はこの過程を強める。各々の経験は記憶を強化し、それに活力を与える。この不断の記憶の反応なしには、記憶はすぐに消え去るだろう。思考は記憶であり、言葉であり、経験の蓄積である。記憶は過去のものである、意識がそうであるように。この、過去の重荷全体が、精神であり、思考である。思考は被蓄積物なのだ。そしていかにして思考が、新たなるものを発見すべく自由でありうるだろうか? 新たなるものがあるためには、それは終らねばならない。
「私は、ある点まではこのことを理解できます。しかし、思考なしに、いかにして理解がありうるでしょうか?」
 理解は過去の過程だろうか、あるいはそれは、常に現在にあるのだろうか? 理解は、現在における行為を意味する。あなたは、理解は刹那においてあること、それは時間のものではないことに気づかなかっただろうか? あなたは徐々に理解するのだろうか? 理解は常に、即座、今、なのではあるまいか? 思考は過去の結果である。それは過去にもとづいている、それは過去の反応である。過去は被蓄積物であり、そして思考は蓄積物の反応である。いかにしてそれでは、果たして思考が理解できようか? 理解は意識の過程だろうか? あなたは、意識的に理解に着手するのだろうか? あなたは、黄昏の美を享受することを選ぶのだろうか?
「しかし、理解は意識的な努力ではないでしょうか?」
 われわれは、意識によって何を意味しているのだろうか? いつあなたは意識するのだろうか? 意識は、愉快または苦痛な問いかけ、刺激への反応ではないだろうか? 問いかけへのこの反応が経験である。経験は名づけること、命名、連想である。命名なしには、経験はないのではあるまいか? この、問いかけ、反応、命名、経験の全過程が意識ではないだろうか? 意識は常に、過去の過程である。意識的努力、理解し、蓄積しようとする意志、あろうとする意志は過去の継続である。おそらくは修正された、がしかし依然として過去のものである。われわれが、何かであろう、または何かになろうと努力するとき、その何かはわれわれ自身の投影物なのである。われわれが意識的努力をするとき、われわれはわれわれ自身の蓄積物の騒音を聞いているのだ。理解を妨げるのはこの騒音なのである。


【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年)】


 クリシュナムルティの基本的な考えが述べられているのだが、少々わかりにくいことと思う。前回の部分で、「蓄積は自由を損なう。それゆえ、あらゆる蓄積は束縛であり知識も同様である」と語った。それに対して質問者は「では経験はどうなんだ?」と疑問を呈している。


 わかりやすい例を示そう。例えば職人である。職人気質(かたぎ)といえば、黙々と丁寧な仕事をする頑固親父といった印象を抱く。なぜ頑固なのか? それは過去の経験からどうすればいい仕事ができるかを知悉(ちしつ)しているからだ。ここに何らかの部分的な真理があるとする見方もできるが、実は落とし穴がある。これは飽くまでも「技術」に関することなのだ。


 そして、技術が秀(ひい)でれば秀でるほど、自分の技術に固執するようになる。だから、人の話にも耳を貸さなくなる。仮に一流であったとしても、それは職業という限定された世界の話である。人生の部分的な幸福を勝ち取ることはできるかもしれないが、技術への過信や執着から独善的かつ傲慢(ごうまん)な人物となることも決して珍しくはない。


 仏教において最も忌み嫌われたのは二乗(にじょう)の面々であった。二乗とは声聞乗(しょうもんじょう)・縁覚乗(えんかくじょう)のことで、手っ取り早くいえば前者は学者で、後者は芸術家やスポーツ選手となる。声聞は知識から、縁覚は経験から真理の一分を悟るとされる。ブッダはこれらの人々に対して「断じて仏になることはできない」と斥(しりぞ)けた。小さな悟りに執着する心を徹底的に弾呵(だんか)した。その殆どがバラモン階級出身者であったことも見逃せない。


 ここで「理解」というキーワードが提示される。理解とは洞察である。「あ、わかった!」という経験は誰しもあることだろう。この「あ」と言う瞬間に理解がある。理解とは、何かと何かが、あるいは何かと自分がつながる瞬間でもある。


 ところが、理解するという行為を阻むものがある。それが知識であり経験であるとクリシュナムルティは指摘する。意識の正体は過去の知識と経験であり、自分固有の反応を司(つかさど)っている過ぎない。「私」を構成しているのは記憶である。つまり「私」を自覚した途端、人は過去に連れ去られてしまうのだ。


 年齢を重ねると感動が少なくなる。それは、新しい知識や経験を過去の知識や経験に組み込んでしまうためだ。であるがゆえに、本当は全く新しい発見であるにもかかわらず、過去の類似したものへと(おとし)めてしまうのだ。ここに「刻々と流れ通う生」を我々が知覚できない致命的な原因がある。


 理解とは気づきであり、直感的な叡智(えいち)である。それは稲光のように突然現れる。「あ」と言った瞬間が現在である。そこに過去は介在していない。いかなる理解であれ、何らかの目覚めがある。


 それでも我々は思考せざるを得ない。では、どうすれば知恵を開いてゆくことができるのか? このあと答えが示される。続きは明日――。


→「思考の終焉」に続く


無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元