古本屋の覚え書き

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覚者は一法を悟る/『白い炎 クリシュナムルティ初期トーク集』J.クリシュナムルティ


 収められているのは1927〜1930年に行われたインタビューと講話である。星の教会を解散したのが1929年だから、神秘宗教の匂いが強い。読むのであれば、後回しにするべきだ。つまらぬ先入観を持ってしまえば、クリシュナムルティをスピリチュアル系の枠組みでしか捉えられなくなる可能性があるからだ。現に訳者の大野純一がそんな方向に進んでしまっている。


 クリシュナムルティを襲ったプロセス体験は、確かに奇妙な出来事だ。不思議といえばこれに勝る不思議もない。だが、クリシュナムルティは万人がプロセスを経験せよとは言っていないのだ。彼の思想をつかめないあまりに、プロセス体験を持ち出して特別視することは、クリシュナムルティからかえって遠ざかることになるだろう。


 尚、3分の1ほどが『生と覚醒のコメンタリー』からの箴言集となっている。クリシュナムルティの古い言葉と新しい言葉を対比することを大野は意図したようだが、杜撰な構成の言いわけにしか聞こえない。


 30代のクリシュナムルティは、自分が覚知した世界を伝える言葉を持っていたとは決して言い難い。しかしながら、口を突いて出る言葉の奔流を抑えることができない。明らかに思想の原型を見て取れるのだが、星の教団の信者に理解されているとは思えない。超然とした彼の姿は、孤独な情熱と静かな怒りに包まれていた。


「覚り」とは言葉で伝えることのできない世界なのだ。ここに覚者の苦悩があった。言葉で説明されたものは知識となってしまい、思考の範疇(はんちゅう)に収まる。「覚り」とは、他人から教えてもらうべき性質のものではなく、自分で経験する世界なのだ。


 クリシュナムルティはインタビューに答える。「覚者は一法を悟る」と――

 世界のすべての〈教師〉は、生の成就であるあの〈生〉に到達したのだと私は思います。ゆえに、すべての生の極致であるその〈生〉に入る者は誰であれ、【その事実によって】、仏陀、キリスト、ロード・マイトレーヤになるのです。なぜなら、そこにはもはや区別がないからです。ですから、それはそうした存在者たち以上だと私が言う時、それは、普通の個人の観点から見て「それ以上」なのです。(1928年、ロンドンでのインタビュー)


【『白い炎 クリシュナムルティ初期トーク集』J.クリシュナムルティ/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2003年)】


 ロード・マイトレーヤとは弥勒菩薩(みろくぼさつ)の生まれ変わりのこと。これは、クリシュナムルティによる「仏の宣言」と考えていいだろう。


 では彼等が覚ったものは何であったのか? それは「生の全体性」である。クリシュナムルティがプロセスで知覚したのは、無限にして広大な生の領域であった。我(が)という鎧(よろい)を打破した瞬間、諸法は無我となり、あらゆるものが渾然一体となった縁起の世界が立ち現われる。


 クリシュナムルティが「過去に対して死ななくてはならない」と説く意味もここにある。我々の人生というのは、橋の上から下流を眺めているような代物である。流れ去った過去に囚(とら)われ、脈々と流れ通う生を実感することができないのだ。「私」を形成しているのは過去の記憶である。未来に希望を持ったとしても、それは過去の反転に過ぎない。


 そして自我はまた、他人との差異によってしか支えることができない。「私」が「私だ」と言う時、それは「他の誰か」であってはならないのだ。だから人は常に「かけがえのなさ」を欲する。だからこそ自分が軽く扱われると自我が傷つくのだ。自我は拡大化の一途を目指してやむことがない。自我の葛藤こそ暴力の原因である。仏教で説かれる「世間」には差別の義がある。僧のことを出世間(しゅっせけん)と名づけるのは、差別の世界から離れる意味が込められているのだろう。


 クリシュナムルティが説いた瞑想は、心の内なる領域をただ観察することであった。天台は止観(しかん)と説き、日蓮は勧心(かんじん)と顕した。この三者が同じ世界を覚ったとすれば、それはまさしく諸法実相ということになる。時間は諸行無常を奏で、空間は諸法無我と広がり、存在と現象は諸法実相と開かれる。


 花はいつか枯れる(諸行無常)。花は香る(諸法無我)。そして花は在るのだ(諸法実相)。



白い炎―クリシュナムルティ初期トーク集