「人間の問題 1」の続き――
世界は完全に分裂しています。
ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、クリスチャン、共産主義者というイデオロギー的な分裂、それは測りしれないほどの害を、非常な憎しみと対立をもたらしています。
宗教的なものであろうと政治的なものであろうと、イデオロギーというのはすべて馬鹿げたものです。というのも、それは概念的な思考、概念的なことばであるからで、まったく嘆かわしいことですが、まさにそれが人びとを分断してきたからです。
こういったイデオロギーが、戦争を引き起こしてきたのです。
宗教的な寛容さといったものもあるかもしれませんが、それもある限度までのものでしかありません。そこを過ぎれば、破壊、狭量さ、残忍さ、暴力――宗教戦争です。
同じように、イデオロギーによって引き起こされる国家や民族の分裂、ブラック・ナショナリズムなどさまざまな種族的あらわれがあります。
いったい、この世界のなかで、非暴力的に、自由に、高潔に生きることは可能でしょうか?
自由は絶対に必要です。
といっても、したいことをするといった、個人にとっての自由のことではありません。
なぜなら個人というのは条件づけられているからです。
この国で暮らしていようと、インドあるいは他のどこかで暮らしていようと。
人はその社会や文化、その人の思考構造のすべてによって、条件づけられているのです。
いったい、こうした条件づけから自由になることは可能なのでしょうか?
イデオロギー的にではなく、ひとつの観念としてではなく、現実のこととして、心理的に、内的に、自由になることは?
それが可能でないとしたら、民主主義や公正なふるまいなどがどうしてありうるのか、私にはわかりません。
さらに、「公正なふるまい」という表現は、どちらかといえば見下されていますが、軽蔑的な意味はいっさい抜きで、それが意味するところを伝えるためにこうしたことばを使えるよう、私としては望んでいます。
自由というのは考えではありません。
自由について書かれた哲学は自由ではありません。
人は自由であるか自由でないかのどちらかです。
それがどんなに飾りたてられていようと、人は牢獄にいます。
囚人が自由であるのは、もはや牢獄にいないときだけです。
自由は、思考にとらわれた心の状態ではありません。
思考は自由にはなりえません。思考というのは、記憶や知識、経験の応答です。
それはつねに過去の産物であって、どうあっても自由をもたらすことはできません。
自由は、生きて活動している現在のなかに、日々の生のなかにあるものだからです。
自由は、「なにかからの自由」ではありません。
なにかからの自由というのは、たんなる反応にすぎないのです。
なぜ人びとは、思考というものにこれほどの重要性をもたせてきたのでしょうか?
その人が実践しようとしているものに従って、概念を公式化するような思考に?
イデオロギーの公式化と、そうしたイデオロギーへの意図的な順応は、世界じゅうで見られます。
ヒトラー・ムーブメントはそれをしましたし、共産主義者たちはそれを徹底的にやっています。宗教集団、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー教徒などなどは、2000年にわり、プロパガンダを通じて自分たちのイデオロギーを主張してきましたし、脅しによって、約束によって、人を追従させてきました。
こうした現象は世界じゅうで見ることができます。
人間はずっと、思考にこれほどの特別な意義、重要性を与えてきたのです。
より専門化され、知的なものになればなるほど、思考はますます重大なものになります。
そこで私たちは問いかけるのです。
そもそも思考は、私たち人類の諸問題を解決することができるのだろうか、と。(※ブランダイス大学での講話)
【『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ/竹渕智子〈たけぶち・ともこ〉訳(UNIO、1998年)】
決して難しいことを言っているわけではない。そうでありながら、我々の既成概念が激しく揺さぶられる。しかし、揺さぶられるのだがまた元通りになる(笑)。案の定、変容は起こらないわけだ。つまり我々に求められているのは、振動がそのまま地殻変動を伴うような洞察なのだ。
クリシュナムルティは問う。「人間がイデオロギーから自由になることは可能だろうか?」と。ここに一つ目のトラップがある。イデオロギーとは思想・信条のことだ。すなわち人々が最も大切にし、拠(よ)り所とし、「それなくして自分の人生は成り立たない」と思っているものである。
我々は、「自由にものを考えることができるから、現在の思想・信条に至った」と考えている。だが、クリシュナムルティは正反対のベクトルから問いかけている。結局のところ我々は、自由を享受していると錯覚しながら、ありとあらゆる条件づけによって一つの型に誘導されているのだ。
飛込競技の選手が自由落下の過程で次々と高度な技を発揮する。地面に束縛された我々はそこに自由を見出す。だがクリシュナムルティは、「落下しているだけであり、地球の重力に引き寄せられているだけのことだ」と喝破しているのである(※尚、飽くまでも「例え」であって飛込競技を批判する意図は全くないことを付け加えておく)。
スポーツの世界が人々を魅了してやまないのは、身体的な自由を発見できるからであろう。しかしそれらは、いずれも重力に束縛された中での自由なのだ(=牢獄の自由)。その心理的重力をクリシュナムルティは「条件づけ」「順応」と指摘した。
二つ目のトラップは、イデオロギーを思考に結びつけることで、今度は「思考から自由になることは可能か?」という疑問に導いている。そして、「思考は過去である」というクリシュナムルティの基本的な考えが示される。
思考は経験に束縛されている。経験は多くの場合、周囲からの評価に基づいており、これが強力な条件づけとして機能している。脳が称賛を快感と感じてしまうので避けようがない。このようにして人間の自我は、社会からの評価によって大きくなったり小さくなったりするのだろう。
また、思考を構成しているのは言葉であり知識である。いずれも実は情報に過ぎない。それらは一切が既成のものであり、手垢(てあか)まみれになっている。
確かに科学の世界で新たな原理や公式が誕生することはある。だが発表されるや否や、それは過去のものとなるのだ。言葉と知識に依存する思考は、過去に支配されていることが明らかだ。
我々の生は、過去の反応であり、過去の投影であり、過去を踏襲するだけのものとなってしまっている。だから「私」は変わらないのだ。そして「世界」も変わらない。挙げ句の果てに我々は、未来をも過去の影絵のように見つめている。
ここでクリシュナムルティが志向しているのは、「過去からの自由」である。つまり、歴史や経験からの自由といってよい。ありとあらゆる条件づけを打ち破った向こうにあるものは何か? それは「現在」である。刻々と流れ通う清水の如き生命の奔流がそこに存在するのだ。これを知覚することで変容が訪れる。
ブッダはこうした生命の様相を「如来」(にょらい)と説き明かした。元々は「如去」(にょこ)と称したようだ。つまり、如々として来り、如々として去るその瞬間に生の本質(諸行無常、諸法無我、諸法実相)があるのだろう。この実相に三千の諸法を羅列したのが一念三千の法理である。仏教が着目したのは死後の世界などではなく、瞬間瞬間の生命の実相であった。