・『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』クリシュナムーティ著、メリー・ルーチェンス編
・恐怖からの自由
かれこれ20年ほど前になるが、地域の人々を招いて「遊び」に関する研究発表を行ったことがある。もちろん私が企画・立案したものだ。たまたま若い後輩と話していた時に「最近、遊ぶ場所がないですよね」という一言を耳にしたのがきっかけとなった。
全国各地の遊びを調べ、お年寄りから幼い頃の遊びを取材した。昔の遊びには歌と運動性があった。はないちもんめなんかは、妙な駆け引きや戦略が練られ、最後に残された時は落ち込んだものだ。
そこから、次に遊びの別の意味である「余裕」を取り上げた。例えば車のハンドルの遊びなど。で、結論は「真の遊びとは自由自在に生命力を発揮して生きること」とした。
遊びは自由である。もちろん、そこにルールはあるものの、強制されて遊ぶ子供はいない。つまり、遊びは「自発的な意志」から開始される。
自分が子供だった頃を思い返すと、遊んでいる時は時間があっという間に過ぎた。夕闇が濃くなって始めて帰る時刻に気づいたものだ。「じゃ、また明日遊ぼうぜ」と友達と別れるまで、我々は完全に自由だった。
だから反対に、暇で何もすることがない状態には耐えられなかった。退屈にはぞっとさせられる何かがあった。それは死の気配だったのかもしれない。
自我が芽生える中学生以降になると、自由は極端に技術的なものとなる。勉強やスポーツは基本的に技術がものを言う世界である。私は野球をしていたのだが、自由にボールを打てるようになるには、素振りという不自由が不可欠となる。自由は不自由に支えられていた。
このようにして社会や文化による条件づけが行われ、幼いあの日のような自由さを我々は失ってしまった。我々が目指す自由とは、「何でも買える自由」に過ぎない。そのためにヒエラルキー社会の中で競争に余念がないわけだ。自由な精神、自由な魂はどこにも見当たらない。多分、人里離れた山奥の洞窟の中にも存在しない。
人は不自由を感じた時に自由を欲する。これはいわば表面的な自由といってよい。これに対して本質的かつ根源的な自由がある。外なる自由ではなく、内なる自由だ──
私どもの大部分の人にとって、自由とは観念だけのものであって、現実ではありません。自由ということについて話をする時、私たちは外的な自由というものを欲しがります──旅行をしたり、好き勝手なことをしゃべったり、好きなように考える──という自由です。自由の外的な表現は、特に、圧政やら独裁が行われている諸国ではきわめて重要なことに思えます。これに対して外的な自由が得られる諸国では、人はより多くの快楽とより沢山の所有を求め出します。
自由とはそもそもどういうことなのか、内的な意味で、完全かつ完璧(ぺき)な自由とはどういうことか、そしてこの自由は外に向って、社会や人間関係の中で表現されるわけなのですが、この自由について深く考察していくと、次のような問いにつき当たるように思えます。それは、人間の精神は、いわば厳重に限定されているのだから、およそ自由になどなれる筈はないのではないか──人間の心は独自の条件のワク内で生きて活動する以外はないのだから、自由の可能性などないのではないか、ということです。こうして、この世では、内的自由であれ、外的自由であれ、自由はあり得ないのだという理屈を人間精神が理解すると、今度は彼岸の世界の中に自由をつくりあげようとする──つまり、未来における解放、天国などということになるのです。
自由についての理論的・イデオロギー的概念のことはしばらくおくことにしましょう。そして私達の心、私やあなたの心が、そもそも自由であり得るかを調べてみましょう──何ものにも依存しない自由、恐怖や心配からの自由、数々の諸問題からの自由、しかも意識の面でも無意識の深層の面でも、ともに自由であるような、そんな自由はあり得るでしょうか? 心の完全な自由ということ──時間や思惑にわずらわされることのない境地に到達し、しかもそれが日常生活の実際面からの逃避でもないような──そんな自由はいったい存在し得るのでしょうか?
ところで、人間の心が、内的に、心理的に完全に自由でないならば、真実を見分けることができません──恐怖に左右されてできたのではなく、また私達の住む社会や文化の産物でもないような真実、しかもそれでいて日常の単調・退屈・孤独・絶望・心配といったものからの逃避でもないような真の姿、こういうものは自由な心の持ち主でないと見ることが出来ません。実際、上述したような自由があることを知る為には、人は自からの条件と諸問題を、そして日常生活の単調な浅薄さ・空虚さ・不十分さを自覚せねばならず、特に恐怖についてはこれを熟知しなければなりません。自からを自覚するといっても、後向きに眺めたり、分析的に見るのではなく、現実にあるがままの自己を認識し、人間の心を妨げているように思える事項のすべてから、完全に自由であることができるかを問うのでなければなりません。
【『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ/菊川忠夫訳(霞ケ関書房、1982年)】
「自由」はクリシュナムルティが生涯にわたって取り組んだテーマである。「恐怖からの自由」という言葉に我々の思考を激しく揺さぶる響きがある。
自由の反対は不自由である。不自由とは束縛である。では、内なる自由を考えた時、心を束縛する要素は何であろうか? それこそが恐怖なのだ。
我々は天災を恐れ、蛇を恐れ、詐欺師を恐れる。そして、周囲と違うことを恐れ、成績が悪いことを恐れ、結婚できないことを恐れる。法律とは「社会で決めたルールを守れない奴には制裁を加えるよ」という代物だ。例えば我々には裸で外を歩く自由はない。
条件づけも、根っこにあるのは恐怖である。赤ん坊は両親の顔色を窺いながら、やっていいことと悪いことを学ぶ。学校に行けば、先生が神様みたいに君臨している。児童達は、先生の言葉を疑うことを知らない。
社会や国家は恐怖感によって築かれている。我々がドロップアウトを恐れるのはこのためだ。ありとあらゆる集団も同様である。
クリシュナムルティは恐怖の原因は思考にあると説く。過去の失敗や成功にまつわる記憶が思考を形成している。では、思考から自由になることは可能なのだろうか? それは記憶からの自由を意味するゆえ、過去からの自由にもつながっている。
彼が示した答えはただ一つ。それは「観察」することであった。
・自由の問題 1/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
・恐怖で支配する社会/『智恵からの創造 条件付けの教育を超えて』J・クリシュナムルティ