古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

自閉症児を「わかる」努力/『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』酒木保

自閉症児を「わかる」努力
自閉症は「間(あいだ)の病」
人の批判は自己紹介だ


 軽度発達障害とされるアスペルガー症候群は「高機能自閉症」と訳されている。そこで、「じゃあ自閉症から調べてみるか」ということで本書を読んだ次第だ。


 まったくの見当違いだった。少し読んでから、三つ指をついて謝罪した。大体、初心者ってえのあ、「わかりやすいイラスト」を求めているだけなんだよね。とにかく、大雑把なアウトラインで構わないから全体像を知りたがるのだ。


 私が求めていた内容は全然違っていたが、最後まで読んでしまった。

 自閉症論を執筆するにあたり、つねに頭を離れなかったのは、「人は人がわからないということろから出発したい」ということでした。たとえきわめて密な人間関係であっても、「分からなさ」を覆すことは私は不可能に近いと考えています。
 なぜなら人は、自分の認識を通して他人を見ているからです。自分の認識を抜きにして、物や人を見ることは果たして可能なのでしょうか。
 よく「自閉症児は分からない」といわれます。しかし、分からないのは、何も自閉症児に限られたことだけではないと思います。
 そして、子どもたち、とりわけ障害を持った子どもたちを見ていると、「分かる」とか「分かっている」というのは、物事が自分の思い通りに動いていることを指しているにすぎないのではないかという思いにしばしば駆られます。
 なぜ、私たちは、「分かる」ことにこだわるのでしょうか。また、社会全体が、分かる、それもとにかく早く分かることにこだわりすぎているように思います。
 人は、分からないからこそ人との関係に悩み、少しでも分かろうとするための努力を続けます。しかし、「早く分かる」ことだけを求める時、人はしばしばこの努力を怠り、自分を安心させようとして勝手な解釈をしたり、相手を理解したつもりになります。
 何かにつけて急ぐことは、あまりよい結果をもたらしません。急ぐこにとよって、あるいは急がされることによって、人は大きな変化に遭遇することになるからです。大きな変化は、時には人をぐんと成長させることもあるでしょう。しかし、いまの社会を見ていると、そうでないことの方が多く、人間の環境に対する適応は、本来、細かな変化の積み重ねによって保証されていくのではないかと思うのです。


【『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』酒木保(PHP新書、2001年)】


 臨床に携わってきた人物ならではの真摯さ、誠実さ、ひたぶるなまでの真剣さが窺える。これは、冒頭のテキストなんだが、本全体というよりも著者自身の自閉症に対するスタンスをよく示している。


「その気持ちはわかる」と書いてしまえば嘘になる。わかるはずがない。何を隠そう私は自閉症児と接したことがないのだ。擦れ違ったことが何度かある程度だ。その上で敢えて書いておこう。私は著者のスタンスが気に入らない。


「善人ぶるんじゃねーよ」とまでは思わない。「色々とご苦労されてきたんだろうなあ」と感じる。だが、入れ込み過ぎだ。入れ込み過ぎとは、仕事の情熱や姿勢を指すわけではなく、ロジックが自閉症に傾き過ぎているということだ。“悪しきリベラル性”と言ってもよい。


 もちろん、そうした姿勢自体に善悪はつけられないだろう。しかし、中途半端な人のよさが、主張を曖昧なものにしてしまっているのだ。だから、もっとはっきりした言葉で、最初っから偏ったことを叫んでしまうのが正しいと私は考える。


自閉症って障害を持つ子供がいるんだけどさ、治すのが難しいのよ。コミュニケーションも中々とれないんだよね。で、治療にも時間がかかる。問題はさ、あんまり関心を持つ人がいないってことなんだよね。だけどさ、この本を読んで、あんた放っておける? あんたんところに生まれてくる子供がさ、自閉症になる可能性だってあるんだぜ」という具合でやりゃあいいのだ。


 でも、よく考えると、これは単に著者と私の気質が違っているせいかも知れない。誰も知らないと思うが、私は短気なのだ。


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