暴力が破壊するもの 2/「黒い警官」ユースフ・イドリース(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』所収)

 ・暴力が破壊するもの 1
 ・暴力が破壊するもの 2
 ・暴力が破壊するもの 3

必読書リスト その二


 前回は登場人物のシャウキーを紹介した。今回はアッバースを取り上げる。実は彼こそが「黒い警官」だった――

 このアッバース・マフムード・アルザンファリーなる者の任務とは殴ることであった。自白させるために殴るかと思えば、ただ殴るのが目的で殴ることもあり、殴られた者は壊滅してしまうのだ。彼は様々なやり方で殴る。棒、鞭(むち)、靴、警棒、素手で。


【「黒い警官」ユースフ・イドリース/奴田原睦明〈ぬたはら・のぶあき〉訳(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』1991年、所収)以下同】


 仕事の一部に暴力が含まれる時、それまで眠っていた獣性が目を覚ます。火が点いた獣性は加速度を増して、“純粋な欲望”と化す。そして、ブレーキが利かなくなった欲望は、刺激を求めて暴走する。


 では、一方的に振るわれる暴力にはどのような意味があるのか――

 彼の殴打の何と醜悪なことか! 普通、人はよく喧嘩し殴り合うが、実はこれは“殴る”ということではない。殴られた者は殴り返せると思う気持ちによって、受けた打撃の大部分を軽減できるのだ。殴られることに起因する苦痛はすぐに蒸発し、殴られた者を反撃へ駆り立てる衝動という形をとる。つまり人は殴り返す自由がある時には、殴られてもこたえない。だが殴り返す自由も権利も力もなく、ただただ殴られるだけの時、受けた殴打は骨身にこたえるのだ。その時人は殴られたことを真に感じ取る。殴られる苦痛を。殴られた箇所に感ずる痛みや、それによる一般的な痛みのみではなく、侮蔑(ぶべつ)されたことによりもたらされる、これ以上ないほどひどくすさまじいもう一つの苦痛を。その時人は自分の体の一部に向けられた殴打と共に、もう一つの殴打が自分の存在全体に、人間としての感情と自己の尊厳にも向けられていることを感じとる(ママ)のだ。その殴打からくる打撃は痛烈である。なぜならそれは殴られた者の内部を直接打ちのめし、皮、肉、骨、そしてそのような時の人間的反応である殴り返すという権利、これらのすべてがその打撃を覆ってくれたり、減じてくれるということがないからだ。


 殴られた際に感じる痛みからは、相手の怒りや憎しみが伝わってくる。そして、殴られた側も痛みの中から怒りと憎悪を反射する。だが、単なる仕事としての殴打や、ただただなぶり、もてあそぶことを目的とした暴力にさらされると、人間は壊れる。そこに存在するのは一人の人間ではなくして、暴力を受動する肉塊となる。つまり、“モノ”だ。

 人間が無理やりこのように覆いを奪われ、暴力によって沈黙させられたなら、苦痛を一方的に受けることと沈黙を強いられ、何も言えぬまま人間性のみか、動物としての特性さえ放棄しなければならぬとしたら、一体どうであろうか?
 その時人間は噛(か)みつくことも、蹴(け)り返すこともできぬただ恐れ戦(おのの)く剥(む)き出しの肉塊に変じてしまう。
 苦痛をうけつつ沈黙せねばならぬことは、苦痛それ以上に激烈な痛みを与えるものだ。とりわけ、この種の殴打に対しては、その苦痛と恥辱を阻止するためには、堪え忍ぶか、さもなくば自殺によって自ら命を絶つしかない。それは多くの人間が可能かもしれぬと思っているが、実際にはできないことなのだ。たとえできるとしても、それは生命の法則自身が拒否し、その遂行を阻止するのだ。自分自身とその存在をもとより防御すべく創られている者が、自らを葬り、その存在を抹殺しようとするならば、いったい、そこには如何(いか)なる合理的な説明がなされるというのだ?
 いや、事実はそれとは逆で、最も惨憺(さんたん)たる事態を招来したことには、その時耐え、忍ぶどころか、生命への執着がますます募っていき、甘美な魂の声が生命力の極みにおいて、破廉恥な域へ生き永らえんとして誘うのだ。かくして、ひどい苦痛を伴う、苛烈で、屈辱を与える殴打が外部から振り下ろされるごとに、それに対し内からは、自分自身の中から生じる、千に及ぶ罵倒(ばとう)、我が身を突き刺す矛先、臓腑(ぞうふ)を引き裂き、硫酸が鉄を溶かすように魂を溶解してしまう屈辱と侮蔑感に見舞われるのだ。それというのも、死なずに、死ぬのは嫌だとして、生き永らえ、屈辱的に生命に執着し続ける故なのだ。
 この世で最も酸鼻なものは、彼のアッバース・アルザンファリーのいる風景だ。上エジプトから来た黒い警官が殴打を加えている最中の。生きた人間の存在を破滅に追い込みつつ、それを愉(たの)しむ彼の姿だ。殴られる者は彼の眼前で盲目的な恐怖の中で、絶叫する怯(おび)えきった肉塊と化す。そしてその様は彼を一層殴打に駆り立て、破壊の喜悦は一層募っていく。大きな喜びの軌跡を辿(たど)りつつ彼は殴り、そして殴り続ける。構造物の一部を破壊した者が、こんどは全壊させんものと凶暴な喜びに駆り立てられているかのように。
 殴打、この種の殴打においては、殴られる者が怯えきった人間のスクラップ、苦痛に呻吟(しんぎん)し怯えながら殴り返すまいとし、意識的に下へ下へと身を低くくずおれさせるスクラップと化していく時に、殴る方は別の人間スクラップと化していく。そこにはあたかも破壊しつつより高くへ登りつめていく人間の姿がある。同じ種に属す者の身に生じる苦痛が彼に至福をもたらし、自らの意志で喜悦に浸り、さらに苦痛に対して自分の内に生じる人間的反応をも意思的に抹殺するのだ。そして彼の犠牲となった者がこれ以上ないほどの凄惨(せいさん)な姿で崩壊し破壊されていく時、他方彼の方は、神の被造物にはできかねる、人間の中で最も低劣に堕した者にして初めて悦にいれる卑しく罪深い陶酔へと、彼の殴打は止むことを知らぬのだ。


 一方的な暴力が、もしも運命であるとすれば、暴力は神と似ている。神はいつだって生殺与奪の権限を握りながら、運命の鉄槌(てっつい)を下す。まさしく暴力だ。


 それにしても、何という文章だろう。人間の堕落と悲惨とをあますところなく描写しながらも、文学性の薫りに満ちている。読む者に息を止めるほどの緊張感を強いておきながら、興奮という名のスパイスで鼻をくすぐっているのだ。静と動、苦痛と喜悦、堕落と上昇という相反する方向性が交錯し、読者の感覚は麻痺させられてしまう。イドリースは目も眩(くら)むような毒を放っている。


 アッバースが体現する暴力は、権力に守られた位置から振るわれている。そもそも警察自体が“国家の暴力装置”である。権力と暴力とは密接不可分な関係にある。世に暴力と無縁な権力は存在しない。


 よく考えてみよう。「力」と名のつくものは何らかの暴力性を伴っている。大体、資本主義経済というシステム自体、資本という力にものを言わせる構造となっている。


 イエスは言った。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」と。んなのあ、綺麗事だ。そもそも、キリスト教国である欧米がこれを実践していないじゃないか。イスラエルパレスチナに対して行っているのは「自分の家を破壊されたら土地を差し出せ」ってなもんだよ。


 イスラエルパレスチナを殴打している。アメリカはイラクを殴打している。イギリス、ロシア、中国もやりたい放題だ。それ以外の国々はこれらの陣営に頭を下げ、おもねり、這いつくばって、貿易や経済協力という名前でみかじめ料を支払っている。「核の傘」だってさ。日傘は紫外線を避けるのが目的であるが、我が日本は“放射線を降らせる傘”に守られている。


 しかし、「黒い警官」ことアッバースは廃人になっていた。この後で、アッバースとシャウキーが再会することになる。