諸君は永久に生きられるかのように生きている/『人生の短さについて』セネカ

 セネカの言葉は辛辣だ。そして、警句の余韻に満ちていて毒がある。そう。毒をもって毒を制するのだ。毒が変じて薬となるが如し。


 セネカは我々の人生をあげつらう――

 諸君は永久に生きられるかのように生きている。諸君の弱さが諸君の念頭に浮ぶことは決してない。すでにどれほどの時間が過ぎ去っているかに諸君は注意しない。満ち溢れる湯水でも使うように諸君は時間を浪費している。ところがその間に、諸君が誰かか何かに与えている一日は、諸君の最後の日になるかもしれないのだ。諸君は今にも死ぬかのようにすべてを恐怖するが、いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。(※「人生の短さについて」)


【『人生の短さについて』セネカ/茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳(岩波文庫、1980年)以下同】


 ウーム、頭が痛い。私は知らないうちに45歳となっていた。川を流れる一枚の木の葉のように時を過ごしてしまった。何ということだ、既に川の中流を過ぎているではないか。セネカは、「明日はないものと思え」「今日を精一杯生きよ」と教えてくれる。


 更に毒のパワーは増す。消費期限切れの食肉もかなわない――

 誓って言うが、諸君の人生は、たとえ1000年以上続いたとしても、きわめて短いものに縮められるだろう。諸君の悪習に食いつくされない時代は、一時代もないであろう。実際この人生の期間は、本来流れ去っていくものであっても、理性によって延ばすことはできるが、しかし速やかに諸君を見捨ててしまうことは必至である。なぜならば諸君はこれを掴(つか)まえもせず、引き止めもせず、万物のうちで最大の速度をもつ時の流れを遅らせようともしないかわりに、それを無用なもののごとく、また再び得られるもののごとくに、過ぎ去るに任せているからである。


 私のおでこに「無為」というスタンプを捺(お)されたも同然だ。だがそれだけではない。セネカの言葉は時間の本質を考えさせる。そう。「過ぎてしまえば一瞬に過ぎない」ことを。この相対的な概念を絶対と信じ込んでいるところに我々の不幸があるのだ。


「人生とは、不定の執行猶予のついた死刑囚のようなものである」とユゴーは書いた(『死刑囚最後の日岩波文庫、1950年)。万人が生まれた瞬間から死を目指して生きる。そうであるにもかかわらず我々は、死を敬遠し忌避し、見ないように努めている。無為なる人生の根本的原因がここにある。


 先日、私の後輩が亡くなった。まだ33歳という若さだった。癌が発見された時点で既に転移していた。「余命2ヶ月」という宣告をものともせず、彼は2年以上生き続けた。結果的に癌が彼の命を奪った。だが彼の顔は死して尚、勝利を誇っているように見えた。抑えることのできない微笑が浮かんでいたのだ。私の耳には自分の漏らした嗚咽(おえつ)が聞こえた。


 後輩の人生の充実を思えば、彼の人生が短いものだとは到底思えない。彼は人生を十全に生き抜いた。そして「光の存在」となったのだ。


人生の短さについて 他二篇 (ワイド版 岩波文庫) 生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)
(※左が茂手木元蔵訳、右が大西英文訳)