古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

交差点で見た礼節


 昨年の暮れのことだ。蔵前橋通りの信号が赤に変わり停止線の前でバイクを停めた。私の横に大型トラックが勢いよく突進してきた。低く、くぐもったブレーキ音を撒き散らし、前へつんのめるようにして停車した。その時である。横断歩道を渡りかけていた老婦人が立ち止まってトラックの運転席を見上げた。そして、右手を「どうぞ、お先に」と言わんばかりに差し出したのだ。周囲に居合わせた人々は意に介する素振りも見せず、そそくさと老婦人を追い越していった。しばしキョトンとしたご婦人は静かに歩みを進めた。「あなたが行かないのなら、私が先に失礼しますよ」とでも言うように――。


 普通であれば「信号が変わったの見てんのかよー、ボケ! 無駄な二酸化炭素を撒き散らしやがって! 慎太郎に言いつけて都内に入れなくしてやろうか? それとも、トラックから引き摺り下ろして、ハンドルを握れない身体にしてやろうか、コラぁ!」となるはずだ。


 婦人は只単に惚けていただけなのかも知れない。だが、痴呆症状が現れても尚、人を思いやる所作が出てくるためには、それ相応の歳月を必要としたはずだ。


 美しさとは、繕(つくろ)うものではなく、虚飾を剥ぎ取った後に残されるわずかな量の“生き方”なのかも知れない。


 慌ててブレーキ・ペダルを踏んだ運転手は、赤面する程度の良心を持ち合わせていたかどうか――。