古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

読者と記者が奏でる喜怒哀楽のハーモニー/『記者の窓から 1 大きい車どけてちょうだい』読売新聞大阪社会部〔窓〕

 ・読者と記者が奏でる喜怒哀楽のハーモニー

『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳
『あの時、バスは止まっていた 高知「白バイ衝突死」の闇』山下洋平
『自動車の社会的費用』宇沢弘文
『交通事故学』石田敏郎


 黒田軍団とあだ名された、黒田清率いる読売新聞大阪社会部が、新機軸として紙面に掲載した「窓」欄(1980年1月1日開始)の集大成。小さな欄でありながらも、読者と記者が人間として交流する内容には人生の悲喜こもごもが凝縮されていて、深い感興を誘わずにはおかない。


 それぞれの読者の思いが込められた投書はいずれも名文。無名の庶民が織り成す日常の小さな物語が、知らず知らずの内に読む者の心を打つ。


 生活の中から感動の二字が失われつつある方には是非とも読んで頂きたい一書である。


 本書のタイトルは大阪読売が発刊されて以来という空前の反響を巻き起こした市井の母が寄せた投書から引用されている。本書が絶版となっていることと、結構な歳月を経ていることを鑑み、全文引用しておく(本書257p)。

 窓様へ。初めておたよりします。いつも楽しみに窓欄を読ませていただいております。お手紙を出そうかどうしようかずっと迷っておりましたが、やはり息子の最後の言葉を聞いてきただこうと思い、ペンを取りました。

 私の息子は去る7月16日の夕方、交通事故にあい、翌17日早朝、初めての夏休みを目前にして6歳半の短い一生を終えてしまいました。大阪府下ことし200人目の交通事故犠牲者とかで、新聞などでもとりあげられました。

 いつもは家の近所でばかり遊んでおり、お友達の所へ行ってきたらと言う私に「遠いからいいの」って答えていた息子(和也といいます)だったんです。でも事故の前日と当日に限って友達の家に遊びに行っての帰りでした。

 その日、初めは私の家にきて遊んでいたのですが、バッタ取りに行くからと言って出かけたんです。夕方一人の友達が帰ってきたので、まだこれから遊ぶと言う彼に「和也君にごはんだから帰るように」って伝言を頼んだんです。その帰りに事故にあいました。

 前日も6時過ぎても帰って来なかったので「遅く帰ってきたらごはん食べさせないよ」って叱ったところだったので、早く帰らないと私に叱られると思って飛び出したのではないかと、ずいぶんくやみました。

 その道路は東行きが結構渋滞しており、西行きがすいているため危険なのです。事故の前日も同じ友達の家に行っておりましたが、帰り道で近所のおじさんに車に乗せてもらい、一度は命拾いしたのですが……飛び出しとはどういう場合を言うのでしょうか?

 和也の場合、目撃者のかたから後で聞いたのですが、左右きちんと確認してから走ったらしいのです。でも子供ですから走る時は下を向いて一目散――車のスピード感が1年生の息子にはつかめなかったのか、それとも死角になって車が見えなかったのか……

 自分で左右確認して走って事故にあったのだから仕方ありません。横断歩道のない所を渡る時に、親として注意できること、それは『左右をちゃんと見て渡りなさいね』って言えるだけではないでしょうか。大人だったら右左見ながら歩きますよネ。でも小学校1年の息子にそんなこと、こわくって出来なかったろうと思います。相手のかたが、もし前を見て走ってさえいてくれたら、ブレーキを踏んでいてさえくれたら、けがだけですんでいたのではないかと残念です。

 警察で「相手のかたが『最初は、ネコか犬をひいたと思った』と言っていた」と言われた時の私の心の中をお察し下さい。

 大切な息子を犬やネコと同じにして、たとえ加害者が警察でそのように行ったとしても、両親の前で言うべきことではないのとちがいますか。私にはこの警官の一言が忘れられません。

 さて事故の後、和也は三国ヶ丘のS病院へ運ばれました。最初の診断は頭には異常ありません、腹部を引きずられているので腸がやられているかもしれないが、12時間くらい経過を見ないとわからない。お腹がはってくるようだったらすぐに手術します。12時間は目が離せません、とのこと。他に大腿(だいたい)骨が真横に骨折してましたし、あちこちすり傷だらけ。でも頭は大丈夫とことだから一応安心しておりました。一晩中「のどがかわいた、お水ちょうだ、お水ちょうだい」って言ってました。

 けれど、お腹がやられているかもしれないから、一切水は飲ませてはならないと言う医者の指示で、心を鬼にしながら、水をほしがる息子に与えませんでした。祖父母の顔を見たとたん、“おばあちゃん、お水ちょうだい”って、動かせない体を上半身おこして、手をさしのべたんですよ。お父さん、お母さんに言ってだめでも、おじいちゃんたちの甘いのを知っていたからでしょうね。とにかく、のどがかわいた、あつい、かゆい、ハイソックス(包帯のこと)をぬがせ、その他、学校のこと、宿題のこと、お友達のこと、近所のお友達のこと、弟のこと、心に気にかかることすべてを話したみたいです。あまりしゃべらせたらだめだって言われたけど、息子の質問に全部答えてやったら、いちいち納得したみだいでした。翌朝5時近くになって、息子もおちついているみたいだし、“11時間たったね。お腹もはってきていないし、峠こしたかな”って喜んでいた途端、何だか息づかいがおかしくなってきたので、看護婦さんに来てもらったが、“えづいているんでしょう、様子みて下さい”ってことで、医者も呼んでもらえませんでした。だから医者が来てくれた時は、もう虫の息でした。呼吸困難をおこしてから半時間もたたないうちに、息子はあっけなく亡くなりました。胸をかきむしりながら、のびをして、うなっておりました。あの時が一番苦しかったんでしょう。“大きい車どけてちょうだい”。これが息子の最後の言葉だったんです。この言葉が、和也が事故に関して言ったたった一つの、そしてこの世での最後の言葉です。この言葉を、私は車にのっている、また免許証をもっている、すべてのドライバーのかたに伝えたかったんです。

“大きい車”。そうなんです。たとえ軽自動車にのっているかたでも、人間、まして子供にとっては“大きい、大きい車”なんです。その大きい車を、あなたがたは運転されているんです。車と相撲をとって勝つ人間はいないのです。いつも自分は大きい車にのっているんだ、だから注意して、安全運転しなければならないんだ、と肝に銘じて運転して下さい。それから、最低限前を向いて走って下さい。いくら横断歩道があろうとも、信号があろうとも、脇見をされていたら、ないに等しいのです。自分の子供のことを考えて走ってくだされば、あまり無茶な運転はできないと思うのですが……。子供を持っておられない若いかたには、子供の習性がわかりにくいでしょうが。

 ということで、事故から12時間後に息子は6歳半という短い生涯を終えてしまいました。医者の死因は脳挫傷(のうざしょう)ということでした。でも、初め頭に異常がありません、と聞かされていた私には、レントゲンだけではわかりませんでしたと言われても、納得できませんでした。それに、その病院には、すばらしい脳検査の装置が設置されていたと、あとからわかり、何の検査もしてもらえず、亡くなった息子のことを考えると、とても残念です。12時間、目が離せないと言われたわりには、見にもきてくれなかったし、素人目にみても呼吸困難をおこしているのではないかと思えるのに、医者もよんでくれなかったし、こんなことを言っても亡くなった息子は帰ってきませんが、出来るだけのことをしていただいて亡くなったのなら、あきらめもつきますが、違う病院に運ばれていたらって思うと、残念です。脳挫傷で、初めから助からないってわかっていたならば、あれだけほしがっていた水を、思いっきり、のませてあげたかったです。おっとりして、こわがりだった息子が、まさか交通事故にあうなんて。でも、そのまさかがこの世にはおこるのですね。

 昨年秋に私のおじが亡くなってお葬式、骨あげ、初七日、四十九日、納骨とすべての法要に参加して以来、時折「和君、死ぬのいやや、こわいねん、祐二(弟の名)とわかれるのはいややねん」と言って泣いていた息子だったんですが、彼には何か感ずるところがあったのでしょうか。

 小さい時からしっかりしているね、かしこいねってみなに言われながら育ってきた息子。学校ではものしり博士だったらしい息子。賑やかなのが好きで誕生日だと言っては両祖父母たちも集まり、入学式には両おばあちゃん、私、弟のつきそいで行きました。中学校、高校の分まですませていったのかもしれません。

“和君、三国ヶ丘高校(私も主人も卒業生なので友達がほとんど三国出身)へ行くんやで”って言ってましたから、家の外でそんなこと言ったらだめだよって言っておりましたが、その高校が彼にとってプレッシャーとなる前に亡くなってしまいました。予防接種もすませ、虫歯の治療もすませて会いたい人には亡くなる2週間の間に全部会っていますので心おきなく行ったことでしょう。いまごろ“和君、かしこいんやで”ってみなに自慢しているかも。なぞなぞ遊びが好きだったので、きっとなぞなぞで遊んでいるでしょう。弟にはお兄ちゃんはウルトラマン80に変身していつもみなのことを見守っているからねって言いました。困ったことがあったら助けに来てくれるよって、弟は弟なりにそう思いこもうとしているみたいです。“死”とはどんなことか、3歳半の彼にはわからないでしょう。でもお兄ちゃんはもう帰ってこないっていうことはわかるみたいです。毎日必ずお兄ちゃんのことを口に出します。

 事故から5か月近くたってようやく3人の生活にも慣れてきましたが、長男のことは生涯忘れることが出来ないでしょう。いまでも家にはいないけれど、どこかに生きている……そんな気がします。同封のお金(5000円)は息子の供養です。少しですが地の塩に加えて下さい。

 それと、1000円は亡くなった息子が主人からもらった最後のお小遣いです。クルクルテレビのウルトラマン80のカセットを買うって、とりおいていたお金です。カセットの方は納棺の時に私の弟が買って入れましたので使うことなくこの世に残して行きました。地の塩に加えていただいてどなたかの役に立てていただければ息子もきっと喜ぶだろうと思います(読売テレビ24時間テレソンの時も自分のお小遣いをだしたくらいです)。

 同封の種は普通の朝顔の種ですが、学校の理科の教材で息子の形見となった朝顔の花からとれた種です。来年その種をまき、花をさかせ、またその花からとれた種を翌年まき……。夏になったら息子が帰ってくるような気がします。全部はお送りできませんが、半分同封いたします。出来たら遠方のかたにもらっていただけると遠くに旅が出来るみたいでうれしいのですが……。

 去年、息子と一緒に〈戦争〉展を見に行ったんですよ。一昨年はまだ小さくって連れて行かなかったのですが、去年は“なんで戦争なんかするんやろ、あほやな――”って感ずるところがあったみたいでエラブカ仏等にお供えをしておりました。ことしも一緒に行く予定だったのですが、来年は彼の写真と一緒に行こうと思います。それと弟を連れて。

“大きい車どけてちょうだい”この言葉を私は一生忘れないでしょう。時節がらスタッフのみな様がたお風邪をめしませんように。長々の乱筆乱文お許し下さいませ。

 12月6日夜、林 知里


 後日譚によれば、大阪府豊中市の主婦が早速、北海道の酪農高校へ行っている息子さんに、朝顔の種を託した。以下はその主婦からの投書。

 和也君は2日がかりの長い長い旅をし、いま、原野に眠っています。いや、一人で流氷を見に行っているかもしれません。冬がすぎ、春がすぎ、夏を迎えると、必ず温室に種をまいてくれるでしょう。そして芽が出たら、広い原野に根をおろし、花を咲かせてくれるでしょう。息子は必ずそうすると約束して帰りました。

【『記者の窓から 2 走れ村の子負けるなよ』】


 黒田自身も強烈な印象を受けたと見え、彼が新聞界への遺恨を淡々と綴った『新聞が衰退するとき』(文藝春秋)にも、そっくり引用されている。


リアルすぎて怖い交通安全CM集
・「地の塩の箱」/『昭和の根っこをつかまえに』北尾トロ
読売新聞大阪社会部