もう数ヶ月前のことだ。私は自転車にまたがって、赤信号を睨(にら)んでいた。交通安全週間のようで、交差点内で警官が笛をピーピー鳴らしていた。ぐるりと目をやると、私の真後ろに派出所があった。
自動車の右折信号が表示された。先頭車両がゆっくりと動き出したその時である。対向車線からセミの鳴き声みたいなエンジン音が鳴り響いた。信号が変わってから既に3秒は経過していた。初老の男性が運転する車が交差点で凍りついた。ヤンキー少年が跨(またが)るミニバイクが車に突っ込んだ。ブレーキ音は聞こえなかった。初老の夫妻は呆気にとられていた。ヤンキーは、もんどりうって道路に投げ出された。が、彼は直後に早歩きで、私のいる歩道に向かった。きっと、痛みよりも羞恥心の方が大きかったのだろう。警官が「大丈夫か?」と声をかけると、少年は「痛ったたた……」と腰の辺りを押さえていた。
彼はスピードという自由を手に入れて、ハンドル操作の自由を失った。自由には責任という名のリスクがあることを学べただろうか? それとも、更なる自由を求めて、“死”に向かってスロットルを握り直すのだろうか? 少年には自由な選択肢が二つの用意されている。二つでも多過ぎるぐらいだ。あの程度の事故であれば、自業自得の3割引程度だ。
交差点の端に携帯電話が落ちていた。「お巡りさん、電話を拾ってやんなよ」と私が声をかけると、緊張感あふれる態度でサッと拾い上げた。相変わらず車の中では、初老の夫妻が呆然としていた。私はゆっくりとペダルを踏みしめた。