古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

『日本語 表と裏』森本哲郎

 人は言葉を介して他人や事物を理解し、言葉を用いて思考し、言葉を発して自己を表現する。人はまさしく言葉に生きる動物であるといってよい。


 誰しも言葉を自由に扱っているつもりになっていよう。欲求を示すに当たっては幼児期の「ママ」に始まり、愛の告白、商談、国家間の外交に至るまで、言葉を支えているのは欲望かも知れないと思わせるほどである。一昔前までは「ありがたいお言葉」なんてのもあったな。結婚後、数十年も経つと「オイ、あれ」だけで全てを済ませてしまう御亭主もおられるようだが、定年退職後になると得(え)てして捨てられる羽目に陥っているようだ。最近の若いお嬢さん方は「エー」「ウッソー」「ホントー」の三つで大体の会話は成立するらしい。


 言葉をぞんざいに扱って来たツケが今頃になって現れて来たのではないだろうか? 歌を忘れたカナリヤに存在価値がないとすれば、言葉を失った人間はどうなるのだろう。


 日本語は表現豊かだという。確かに人称名詞の数を考えただけで首肯出来よう。英語であれば「I」一つで済むものが、我が国には優に10を越える一人称がある。人間関係の特性によって微妙に変化をつけるのは、顔色を窺う数だけ自分の呼称が変わるということかも知れない。うがった見方をすれば、表現力を強いられているだけともいえる。


 日本語のもう一つの大きな特徴は、その曖昧さにある。占い師なんぞがよくやる手口に「あなたの親御さんは、お亡くなりになっていませんね」というのがある。親が健在であれば「死んでない」ということになり、逝去してる場合は「亡くなって、既にいない」と、どちらの意味にも受け取れるような仕組みになっている。


 本書は、こうした曖昧な日本語の意味を探り、言葉の底に隠された知恵に迫る内容となっている。俎上に載せられた言葉は、どれもありふれたものであり、よく親しんでいるお馴染みの言葉ばかりである。


「いいえ」という項では、イエス・ノーをあからさまに表現しない日本人の体質を示し、相手との関わり合い次第で微妙に使い分けると指摘。

「結構」とは「充分に満足すべき状態」を意味し、したがって、それが相手のことがらについて用いられるときには「すばらしい」の意になり、自分について使うときには「充分満足しているのだから、これ以上は望まない」という婉曲(えんきょく)な拒絶の意となる。だから「結構です」といえば「ノー」であり、「結構です“ね”」というと「イエス」となる。


 そして、「人生とは否定と肯定とで織り出されている行為の集積(65p)」であるが故に、メリハリある人生を送るためには、イエス・ノーをきっぱりと言い切る言語習慣が求められると結論する。

 そんなわけで、日本人はあからさまな言葉をきらう。あからさまとは、はっきりということだが、はっきりとものをいうのは下品なのである。上品とは「奥ゆかしい」ことであり、「奥ゆかしい」とは、奥に行かまほし、すなわち、奥のほうに何かあるので、そこへ行ってみたいという気持ちを起こさせることである。つまり、あいまいな表現こそ、奥ゆかしいということになる。

 日本人はすべてのものごとに「裏」を見ながら、「裏」をつきとめようとはしなかった。「裏」を「裏」として、ただ承認しただけだった。(中略)日本人の“おぼろの美学”が何よりもそれを証言している。日本人は“あからさま”なことをきらい、ものごとをあきらかにすることを“あきらめる”という形で、断念するの意へと転化させてしまった。なぜなら、ものごとがあきらかになれば、そこにはもう「裏」はなく、何の価値もなくなってしまうからである。日本人はそれを白々しいともいった。


 興味深い考察は推理小説さながらで小気味が好い。さくさくしたかき氷のように体内に涼しげな感興を誘う。絶景とされる「日本三景」の由来を明かすアプローチには昂奮を覚えたほどだ。


 相手を思いやる日本人の心が、甘えの温床となって単なる持たれ合いを生んでしまったことに、何とも言いようのない寂しさを感じさせる。日本語の表と裏は、温暖な気候が育んだ善良なる現状維持の精神に支えられていたのかも知れない。


 いずれにしても本書は「言葉の復権」を願う人であれば、読まずにはいられない好著と言えよう。