古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

内面的な腐敗と堕落/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

・『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 1』J・クリシュナムルティ
・『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ
・『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 3』J・クリシュナムルティ

 ・内面的な腐敗と堕落


 本書が最終巻である。原書は全3巻で、執筆されたのは第二次世界大戦中のことであった。ということは、40代のクリシュナムルティの言葉が描かれていると考えていいだろう。昭和10年代でこれほど高い見識を持っていた事実は驚嘆に値する。我が国では日中戦争(1937年/昭和12年)が起こり、国家総動員法(1938年/昭和13年)や改正治安維持法(1941年/昭和16年)が公布された頃である。


 現代人であれば得心がゆくものの、当時の人々の常識や既成概念からすれば明らかに理解することは困難を極めたことだろう。その上、クリシュナムルティは組織を拒絶していた。なぜなら真理は組織化することができないからだ。彼は講話と面談を通して、一人ひとりの心に火を灯し続けた。

「人は、責任ある地位を占め、刻苦勉励して頂上に登るかもしれませんが、しかし内面的には人は死んでいるのです。もしあなたが、われわれの間のいわゆる偉人――その言動や演説についての報道を載せた新聞に、毎日名前の出る人物――たちに、かれらは本質的に鈍感で愚劣だと告げたら、かれらはぎょっとすることでしょう。しかしわれわれ他の人間と同様、かれらもまた萎れ、内面的に堕落していくのです。なぜでしょうか? われわれは道徳的で、大層立派な生活を送るのですが、しかし目の奥には何の炎もありません。われわれの中には、何一つ自分自身のために得ようとしていない人間もいます――少なくとも私は、彼らはそうしていないと思うのです――が、にもかかわらず、われわれの内面生活は、潮が引くように衰弱しています。知る知らぬにかかわらず、また大臣専用室にいようが、献身的奉仕家のがらんとした部屋にいようが、精神的(スピリチュアリー)には、われわれは、片足を墓場に入れているのです。なぜなのでしょうか?」
 それは、われわれがうぬぼれによって、成功と達成のプライドによって、精神にとって大きな価値を持っているものごとによって詰まっているからではないだろうか? 精神が、それが蓄積したものによって押しひしがれているとき、心は衰弱する。誰もかれもが成功と認知の梯子を登ろうとしているというのは、非常に不思議ではないだろうか?
「われわれは、その上で育て上げられるのです。そして思うに、人が梯子を登ったり、その頂上に坐っているかぎり、挫折は避けがたいのです。しかしいかにして人は、この挫折感に打ち勝ったらよいのですか?」
 しごく単純に、登らぬことによって。もしあなたが梯子を見、そしてそれがいずこに行き着くかを知れば、もしあなたがそのより深い意義を理解して、その最初の【こ】にすら足をかけなければ、あなたは決して挫折に陥りえない。


【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)以下同】


【こ】は格(こ)で、梯子(はしご)の横木のこと。中年となって自分の中に腐敗の臭いを見出した相談者が、腐敗の原因を質(ただ)している。社会に出てからというもの、年齢を重ねるごとに妥協を余儀なくされる場面が増え続ける。多数派によって形成される社会は、常に折り合いを求める。足を引っ張られることも珍しくない。時に肘鉄(ひじてつ)を食らい、煮え湯を飲まされ、下げる必要のない頭まで下げさせられる。利益を追求しているうちに、いつしか長い物に巻かれ、大樹の陰に寄り添うようになる。こうして自分の立場や報酬のためとあらば、どんなことも辞さないような男ができあがるのだ。


 我々は「社会的成功」を条件づけられている。幸福とは社会的成功である。社会で失敗する者は落伍者なのだ。ここにおいて我々は既に「社会の奴隷」と化している。さしたる考えもなく「競争」に参加しているのだ。準備運動は義務教育から行われ、社会に有為なロボットとしてスタートを切る。


 では、社会的成功を収めた人々を見てみよう。政治家は政党の奴隷である。官僚は省庁の奴隷で、大企業の部課長は上司の奴隷となっている。芸能人はプロダクションやテレビの奴隷であり、弁護士・公認会計士は試験の奴隷である。医師は親の奴隷で、公務員は国家および地方自治体の奴隷である。おわかりになっただろうか? 成功を収めている人ほど奴隷性が強いのだ。奴隷の中の奴隷といってよい。


 彼等に充実や満足があるだろうか? きっと他人の視線にさらされる中でしか幸福を感じていないことだろう。「自分さえよければ」と人々を蹴落としてきた成功者が、世の中の混乱を生んではいないだろうか? 人は成功するたびに欲望の炎が大きくなるものだ。その炎が社会を焼き尽くそうとしている。


 クリシュナムルティは腐敗の原因が蓄積にあるとしている。ぎゅうぎゅうに詰められた冷蔵庫を想像するとわかりやすいだろう。冷気が循環しなくなれば、食べ物は腐り始める。荷物を背負えば背負うほど体力は消耗する。風景を楽しむ余裕などなくなる。それでも我々は荷物の量を増やそうと頑張っているわけだ。


 そして条件づけから自由になるために、「梯子に登るな」とアドバイスしている。

「しかし私は、ただじっと坐ったまま、腐っていくわけにはいきません!」
 あなたは今、あなたの休みない活動の只中で腐敗しつつある。そしてもしも、自己修養に余念のない隠者のように、あなたがただじっと坐りながら、内面的には欲望で、あるいは野心と羨望のあらゆる恐怖で燃えていれば、あなたは衰弱し続けることだろう。腐敗は体面とともに生まれる、というのが真相なのではあるまいか? これは、人は評判が悪くならねばならないということを意味するわけではない。しかしあなたは、非常に高潔であられるのではないだろうか?
「そうあろうと努めています」
 社会の美徳は死に行き着く。自分の美徳を意識することは、体面で固まって死ぬことである。外面的および内面的に、あなたは社会道徳の規則に適合しておられるのではないだろうか?
「われわれの大部分がそうしなければ、社会の全構造が土台からくずれてしまうことでしょう。あなたは、道徳的無秩序(アナーキー)を説いておられるのですか?」
 そうだろうか? 社会道徳は、単なる体面にすぎない。野心、貪欲、達成とその認知のうぬぼれ、権勢と地位の無慈悲、イデオロギーや国家の名における殺人――これが社会の道徳である。


 競争が生命を磨(す)り減らしている。「休みない活動」は社会の歯車の運動である。歯車は壊れるまで回り続けることを運命づけられている。このようにして社会の中で、人間が機械化され、断片化が進んでゆく。「せめて油を差してくれ!」という叫び声も届かない。ボロボロになるまで走り続けるしかない。


 勤勉や真面目という美徳で得をするのは誰か? 雇用主と税金を集める連中に決まっている。「一生懸命働くこと」を善とする我々の価値観は決して揺らぐことがない。まるで、洗脳済みの小作人だ。


 辛辣(しんらつ)極まりない言葉が、条件づけされた脳味噌を激しく揺さぶる。考えれば考えるほど船酔い状態を起こしそうになる。確かに我々は善良な仮面をつけて良き国民を演じる。そして国家は戦争に加担し、エネルギーと食糧を奪い合っているのだ。


 世界を混乱させているのは国家であり国家主義である。ここにおいて、我々自身が世界の混乱を生んでいる張本人であることに気づくのだ。