聡明な女性であれ/『石垣りん詩集』

 石垣りんの言葉には目方がある。それは“生活の重み”であり、日常の瑣事(さじ)の底を流れる“生の苦悩”であろう。


 女達に連綿と受け継がれる営みを、石垣りんは謳う――

私の前にある鍋とお釜と燃える火と


 それはながい間
 私たち女のまえに
 いつも置かれてあったもの、


 自分に力にかなう
 ほどよい大きさの鍋や
 お米がぶつぶつとふくらんで
 光り出すに都合のいい釜や
 劫初からうけつがれた火のほてりの前には
 母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。


 その人たちは
 どれほどの愛や誠実の分量を
 これらの器物にそそぎ入れたことだろう、
 ある時はそれが赤いにんじんだったり
 くろい昆布だったり
 たたきつぶされた魚だったり


 台所では
 いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
 用意のまえにはいつも幾たりかの
 あたたかい膝や手が並んでいた。


 ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて
 どうして女がいそいそと炊事など
 繰り返せるだろう?
 それはたゆみないいつくしみ
 無意識なまでに日常化した奉仕の姿。


 炊事が奇しくも分けられた
 女の役目であったのは
 不幸なこととは思われない、
 そのために知識や、世間での地位が
 たちおくれたとしても
 おそくはない
 私たちの前にあるものは
 鍋とお釜と、燃える火と


 それらなつかしい器物の前で
 お芋や、肉を料理するように
 深い思いをこめて
 政治や経済や文学も勉強しよう、


 それはおごりや栄達のためでなく
 全部が
 人間のために供せられるように
 全部が愛情の対象あって励むように。


【『石垣りん詩集』(ハルキ文庫、1998年)】


 料理こそは、人類の知恵であり大いなる遺産だ。古(いにしえ)の時代にあっては、男達が獲ってきた獲物は女達へのプレゼントであり、女達が作る手料理は男達への報酬であったことだろう。それがどうだ。今はお金に姿を変えてしまった。加工のしようがない。


 生み出された知恵が、様式ではなく形式に堕落すると、仕事は義務と化し単なる苦痛となる。ルーティンワーク。お弁当のおかずは冷凍食品。


 石垣りんが謳い上げた食卓は高度経済成長以前の光景だ。三種の神器も出回っていなかっただろうから、女達の仕事は大変手間のかかるものであったはずだ。保存できるように工夫も凝らしたことだろう。そして女達は家に縛りつけられた。


 社会の中で主体性を発揮することもかなわない女達に対して、石垣りんは「学べ」というエールを送った。しかも台所で。「今いる場所で学べ」とのメッセージは、「聡明な母が社会を変革する」という信念の表明だったに違いない。自分を見つめ、家庭を見つめ、そこから社会を照らす灯台になれ――そんな期待が込められている。


 母親の愛情は本能的なものである。そこに賢明さが加われば、もう男達はかなわない。政治家の大半も女性にすべきだ。