人を殺(あや)めた男達が、牢獄で自分の死と向き合う。罪を顧(かえり)み、残された生をひたと見つめ、更にもう一段高い視点から俳句は生まれる。
死を自覚すると、生の色彩はガラリと変わる。その時、彼等の胸の内で悔恨の風が吹き抜けたことだろう。そうかといって決して過去の罪が軽くなるわけではない。
進化論的に考えれば、突発的な犯罪を犯す者はコミュニティを危険にさらす可能性がある。だから、チンパンジーの世界では仲間によって殺される。このあたりに死刑制度の原型があるように思う。また、種の本能としてそのようなDNAは排除されてしかるべきだと判断されるのかもしれない。
「せめぎあい」は彼等が激情に駆られた時にこそ発揮されるべきであった。後悔先に立たず、である。悔やんでも悔やみきれない過去を見つめ、死を受け入れた時、彼等の心には初めて静穏が訪れた。
絶句
冬晴れの
天よ
つかまるものが無い
尚道(63歳)
さらになにか言おうとしても、それ以上の言葉がでてこない。とぎれてしまった最後の言葉、最後のうた=絶句。
身をゆだねる雲もない「冬晴れ」。間もなく自分は宙に吊られる。
絞首刑という即物的なイメージを離れ、生きていること事体のえたいの知れない不安感も。
(俳号の下に記載されている年齢は被処刑時のもの)
死後の自分をも達観しているのか。ロープにぶら下がった彼は空(くう)に手を伸ばしただろうか。その手で何をつかまえようとしたのか。
執行直前
水ぬるむ
落としきれない
手の汚れ
公洋(28歳)
汚れを自覚しているのは、心が清らかな証拠であろう。それにしても若い。若過ぎる。
処刑前夜
処刑明日(あす)
爪 切り揃う
春の夜
卯一(27歳)
20代で泰然自若として死に赴くことは、まず難しい。俳句にしかならなかった言葉、そして言葉にできなかった思いが交錯する。「自分は何のために生まれてきたのか?」という疑問が、心の中を行きつ戻りつしたに違いない。どこで人生の歯車が狂ったのか。どこでボタンを掛け違えたのか。二度と伸びることのない爪がパチンパチンと弾ける音を牢獄の壁はじっと聞いていた。
我々はどうしても「死刑囚」とひと括りにしがちであるが、色々な人物がいることだろう。いい奴もいれば、悪い奴もいるはずだ。人生が千差万別であれば、犯罪だって千差万別であろう。わずか五七五の文字だけで人を判断できるものではない。それでも、次の句には戦慄を覚える──
綱(つな)
よごすまじく首拭く
寒の水
和之(31歳)
作者が残した二枚の色紙。その一枚が「布団たたみ/雑巾しぼり/別れとす」。もう一枚がこれである。色紙を手渡された係官は「もうこれは人間のワザではない。神様に近い存在だ」と感じ、「手の震えが止まらなかった」という。執行の瞬間、立ち会った全員が、夢中で「南無阿弥陀仏」を唱和していたとも。
死と一体化した時に現れる慎み深い所作。溢れんばかりの自由な旋律。一切を受け容れた者のみに特有なニヒリズム。人間はこれほどの言葉を発することができるのだ。「凄まじい」としか表現のしようがない。
彼等は死んだ。我々の法律によって処刑された。死刑制度とは、正当な理由があれば人間を殺してもいいという価値観である。そこに潜む暴力性は不問に付されている。
人が人を殺(あや)める。そして国家が犯罪者を殺める。行為だけ見れば全く同じだ。
最後に収められた「鑑賞と解説」という座談会が余計である。かえって、死刑囚の俳句を軽んじる結果となっていて辟易(へきえき)させられる。しかも、関西弁をそのまま活字にするというお粗末ぶり。
異空間の俳句たち 死刑囚いのちの三行詩