古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

『歌占 多田富雄全詩集』

歌占


 死んだと思われて三日目に蘇った男は
 白髪の老人になって言った
 俺は地獄を見てきたのだと
 そして誰にも分からない言葉で語り始めた


 それは死人の言葉のように頼りなく
 蓮の葉の露を幽(かす)かに動かしただけだが
 言っているのはどうやらあの世のことのようで
 我らは聞き耳を立てるほかなかった。


 真実は空しい
 誰が来世など信じようか
 何もかも無駄なことだといっているようだった
 そして一息ついてはさめざめと泣いた


 死の世界で見てきたことを
 思い出して泣いているようで
 誰も同情などしなかったが
 ふと見ると大粒の涙をぼろぼろとこぼしているので
 まんざら虚言(そらごと)をいっているのではないことが分かった
 彼は本当に悲しかったのだ


 無限に悲しいといって老人は泣き叫んだ
 まるで身も世も無いように身を捩(よじ)り
 息も絶え絶えになって
 血の混じった涙を流して泣き叫ぶ有様は
 到底虚言とは思えなかった


 それから老人は
 ようやく海鳥のような思い口を開いて
 地獄のことを語り始めた


 まずそれは無限の暗闇で光も火も無かった
 でも彼にはよく見えたという
 岬のようなものが突き出た海がどこまでも続いた
 でも海だと思ったのは瀝青(れきせい)のような水で
 気味悪く老人の手足にまとわりついた
 さびしい海獣の声が遠くでした


 一本の白い腕が流れてきた
 それは彼にまとわりついて
 離れようとはしなかった。
 あれは誰の腕?
 まさかおれの腕ではあるまい
 その腕は老人の胸の辺りにまとわりついて
 どうしても離れようとしなかった
 ああいやだいやだ


 だが叫ぼうとしても声は出ず
 訴えようとしても言葉にならない
 渇きで体は火のように熱く
 瀝青のような水は喉を潤さない
 たとえようも無い無限の孤独感にさいなまれ
 この果てのない海をいつまでも漂っていたのだ


 身動きもできないまま
 いつの間にか歯は抜け落ち
 皮膚はたるみ皺を刻み
 白髪の老人になってこの世に戻ってきたのだ
 語っているうちにそれを思い出したのか
 老人はまたさめざめと泣き始めた


 が、突然思い出したように目を上げ
 思いがけないことを言い始めた
 そこは死の世界なんかじゃない
 生きてそれを見たのだ
 死ぬことなんか容易(たやす)い
 生きたままこれを見なければならぬ
 よく見ておけ
 地獄はここだ
 遠いところにあるわけではない
 ここなのだ 君だって行けるところなのだ
 老人はこういい捨てて呆然として帰っていった


【※歌占(うたうら)/伊勢の神官、渡会(わたらい)の某(なにがし)は頓死して三日目に蘇る。白髪の預言者となって、歌占いで未来を予言し、死んで見てきた地獄のことをクセ舞に謡い舞う。はては、狂乱して神がかりとなり、神の懲罰を受ける】


 多田富雄氏は免疫学の世界的権威である。この詩は、脳梗塞に倒れた後、懸命なリハビリを乗り越え、何とか左手でキーボードを打てるようになってから作られた詩。NHKの番組で私は知った。脳梗塞の世界が生々しく描かれていて、病(やまい)が持つ根源的な恐怖感が忍び寄ってくる。