法の生命は闘争である/『権利のための闘争』イェーリング


 法律を学ぶ者にとっては古典か。随分とまた威勢のいいヤンキーがいたもんだ。

 法の目標は平和であり、それに達する手段は闘争である。法が不法からの侵害にそなえなければならないかぎり――しかもこのことはこの世のあるかぎり続くであろう――、法は闘争なしではすまない。法の生命は闘争である。それは、国民の、国家権力の、階級の、個人の闘争である。
 世界中のいっさいの法は闘いとられたものであり、すべての重要な法規は、まずこれを否定する者の手から奪いとらねばならなかった。国民の権利であれ、個人の権利であれ、およそいっさいの権利の前提は、いつなんどきでもそれを主張する用意があるということである。法はたんなる思想ではなくて、生きた力である。だから、正義の女神は、一方の手には権利をはかるはかりをもち、他方の手には権利を主張するための剣を握っているのである。はかりのない剣は裸の暴力であり、剣のないはかりは法の無力を意味する。はかりと剣は相互依存し、正義の女神の剣をふるう力と、そのはかりをあつかう技術とが均衡するところにのみ、完全な法律状態が存在する。
 法は不断の努力である。しかも、たんに国家権力の努力であるだけでなく、すべての国民の努力である。法の生命の全体を一望のもとに見渡せば、われわれの眼前には、すべての国民の休むことのない競争と奮闘の情景がくりひろげられている。その光景は、すべての国民が経済的な、および精神的な生産の分野でくりひろげているものと同じである。自分の権利を主張しなければならない立場に立たされた者は、だれしもこの国民的作業に参加し、それぞれのもつ小さな力を、この世で法理念の実現にふりむけるものである。


【『権利のための闘争』イェーリング/小林孝輔、広沢民生訳(日本評論社、1978年)】


 まるで、シェリフ(保安官)だ。できれば、これを先住民の人々に伝えて欲しかった。きっと、法律で飯を食っている連中は、法律を絶対視したがるのだろう。では尋ねるが、法律がハンセン病患者に何をしたか? 薬害エイズの人々に何ができたか? はたまた、首相の靖国参拝違憲なのか合憲なのか?


 法律が絶対的な権威と化す社会は怖い。しかし、年がら年中改正される法律も当てにならない。そして我々日本国民は「陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない」という憲法を持ちながら、自衛隊の存在を認め、米軍という戦力を間接的に保持しているのだ。


 解釈次第で権力者に都合のよい判決を下すような法律であれば、「この町じゃ、俺が法律だ」という方がわかりやすい。真の義人が権利を裁定し、善悪を判断すればよい。本気でそう思う。「酋長(しゅうちょう)制」とかにすりゃいいんだよな(笑)。


権利のための闘争 (岩波文庫)