名門高校生による殺人事件/『子供たちの復讐』本多勝一


 二つの殺人事件を追ったルポ。いずれも被害者は家族で、犯人は高校生。しかも超がつくほど優秀な高校生だ。校内暴力という言葉がメディアに出るようになったのもこの頃だ(1979年)。


 高度経済成長に伴って核家族化が進んだ。そして少子化によって、子供は“管理される対象”となった。母親は受験戦争に向けての戦略を練り、堅固なレールを敷く。父親は日本経済の尖兵(せんぺい)であり、家庭を振り返る余裕はなかった。


 子供はまるで盆栽のようだった。針金でぐるぐる巻きにされて、育つ力を抑圧され、自分の意志とは無関係な方向に枝が伸ばされた。

 多くの事例に当たってみると、そうした子のほとんどが、なんらかのかたちで「生活が勉強だけ」という期間を、しかも小学校時代から、かなり長く過ごしている。(中略)生活が勉強だけという日常は、とくに親に対して抵抗力を持たぬ小学生にとっては想像を絶する重圧であり、虐待である。そのような不断の虐待の末に、ようやく「勉強する生活に慣れて」、つまり適応させられ、改造されてゆく。
 これは一種の精神的「ロボトミー人間」ではないのか。(中略)だが、中学・高校とすすみ、体力も父親を越えるほどになったロボトミー人間が、あるとき突然目覚めたらどうなるか。「人生を返せ!」とは、ロボトミー人間が本来の人間に戻ったときの叫びなのだ。
「過保護」という言葉がよく使われる。しかし以上のような形での親の干渉(より広くは社会の干渉)は、むしろ子どもの多様な発展の可能性を刈りとって、一本のモノサシに合わせてしまうための「過虐待」であろう。となれば、家庭内暴力はその長い「過虐待」や「過干渉」に対する子供の側からの反撃であり、復讐と見ることもできる。まず直接的「加害者」としての親に対する復讐であり、結局はしかし、社会に対する復讐だ。


【『子供たちの復讐』本多勝一朝日新聞社、1979年/朝日文庫、1986年)】


「過干渉」とは家庭内で進行する“柔らかなファシズム”と言い換えてもよいだろう。母親は子供を意のままにコントロールする独裁者と化した。「全部あなたのためよ」という決まり文句で反抗の芽を摘み取った。だが、子供とはいえ人間である。ビリヤードの玉みたいなわけにはいかなかった。


 本多勝一は取材の末、“犯行”を“復讐”と捉えた。これは一つの見識であって、全ての少年犯罪を正当化するものではない。二つの殺人事件が象徴しているのは、家庭内に社会と同じ力学が働くようになった事実である。競争と成果主義にさらされ、勝ち負けという単純な判定が繰り返されることで、子供達の心のバネは弾力を奪われ、しまいにはポッキリと折れてしまう。


 子は親の背中を見て育つという。口で嘘を唱えても、背中に真実が浮かんでいる。子供はダブルスタンダード二重基準)を学び、混乱してゆくのだ。子供を野に放ち、黙って見守る程度の余裕が必要だろう。


子供たちの復讐 (朝日文庫)