モルモン教の経典は矛盾だらけ/『信仰が人を殺すとき』ジョン・クラカワー


 数年前のことだが近所に教会ができた。見るからに清々しいたたずまいで、垢抜けた瀟洒(しょうしゃ)な建物だった。最近になって気づいたのだが、実はモルモン教(正式名称は「末日聖徒イエス・キリスト教会」)だった。もちろん建物と教義は別であろう。だが、建物から一度受けた好印象は、確固たる情報となって脳へ入力されてしまっている。


 元々モルモン教創始者ジョセフ・スミスは一夫多妻制を“重要な教義”として自ら実践していた。彼の妻は33人――あるいは48人――もいた。信徒の間で娘が生まれると、10代で教団内の知り合いに嫁がせるため、近親婚となるケースも珍しくなかったようだ。


 その後、州や市から法的な規制を受け、一夫多妻の教義を手離した。ところが、原理主義を重んじる徒輩が今尚存在している。


 教団という閉ざされたコミュニティに属していれば、判断力が失われ価値観が変容する。これは、会社や家族というコミュニティにしても同様である。“閉ざされて”いれば、おのずと権力者に従う道しかなくなるのだ。対話による納得がなければ、道理が軽んじられている証拠である。


 初期モルモン教の行為は明らかに反社会的で、道理に反していた。女性信者には全く自由がなかった。では、その教義はどうだったのか――

 そればかりではない。『モルモン経』には、歴史的に観て、とんでもない年代の誤りや相容れない矛盾が数多くあるのだ。たとえば、車輪つきの馬車のことがたくさん出てくるけれども、コロンブス以前の時代、西半球には、そうしたものは存在していなかった。鋼鉄や7日の周期のような発明も、古代史のなかに登場しているが、それらは実際、まだ発明すらされていなかった。レーマン人はアメリカ先住民の祖先とされているが、彼らがヘブライ人の子孫でないことは、現代のDNA分析ではっきり証明されている。マーク・トウェインは、『モルモン経』には「ということになった」というフレーズが2000回以上も使われていると言って、その退屈な、聖書風の文章を「活字のクロロホルム(催眠薬)」のようだと痛烈に揶揄している。


【『信仰が人を殺すとき』ジョン・クラカワー/佐宗鈴夫訳(河出書房新社、2005年)】


 結局、ただのインチキ宗教だったわけだ。まるで、詐欺紛いの健康食品を毎月買わされて、それでも騙されている自覚のない高齢者みたいだ。人は、「何ものかを信じたがる動物」なのかも知れない。


 人を騙すには、信用させなければならない。そのために、ありとあらゆる手練手管を弄(ろう)し、巧妙な物語をつくり上げてみせる。判断力を欠いた人々は、判断力を欠いているがゆえに嘘をまんまと信じ込まされる。そして、自分の判断を疑うことを知らない。


 テレビショッピングなどで買い物をすることが多い人は危ない。営業マンを必要以上に恐れる人も危険だ。先祖の祟(たた)りなんぞを信じてしまうようなタイプは完全にアウト。


 邪悪な連中は、必ず恐怖感に訴えてくる。人生には浮き沈みがあるものだ。長く生きていれば、沈む機会が立て続けに現れることだって珍しくない。ところが人間の脳というのは、何かが続けて起こるとそれを勝手な物語に変換してしまうのだ。そして今度は、構成された物語が脳を束縛するようになる。何かを恐れて、消極的になっているのだから、やることなすことが上手くいかなくなる。かようにして「祟り」は完成する。


「騙される人に罪はない」――こんな呑気なことを言うのは、騙されていない人と相場は決まっている。人間が幸福を目指している以上、騙されてはいけないのだ。日本人特有の奥床しさや遠慮というものは、美徳でもあり悪徳でもある。


信仰が人を殺すとき 上 (河出文庫)信仰が人を殺すとき 下 (河出文庫)