先入観を打ち破る若き力/『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン


 タイトルの「幽霊」とは意識と理解してよいだろう。質量ともにヘビー級の一冊。


 思い込みが世界をどんどん狭める。「サーカスの象」の喩えもある。世界は外に向かって開かれ、世界観は脳内で構築される。同じ世界に置かれていても、人それぞれの世界観は異なる。それが、“生き方の差”となって人生の春秋を織り成す。


 学問の世界における先入観は根強い。英知という自負が瞳を曇らせる。新たな発見が公開されても、実際に確認する人は殆どいない。こうして盲点は大きくなってゆく。

 医学部の学生にこの話をすると、たいていは、ガリレオの時代なら簡単にできただろうが、20世紀の現代では大きな発見はすでにされてしまっているし、高価な装置や細目にわたる測定なしでは新しい研究はできっこない、という反応が返ってくる。まったくどうかしている! 今日でも驚くべき発見は、つねに目の前にぶらさがっている。むずかしいのはそれに気づくことだ。たとえばこの何十年、潰瘍の原因はストレスであるとされてきた。ストレスによって過剰に分泌された胃酸が、胃や十二指腸の粘膜をおかし、潰瘍と呼ばれる特徴的なくぼみができるという説明である。そして治療法は、制酸剤やヒスタミン・レセプターの阻害薬の投与、迷走神経切断術(胃に分布して酸を分泌させる神経を切断する)、あるいは胃切除(胃の一部を切り取る)と決まっていた。しかしオーストラリアの若いレジデント(研修医)だったビル・マーシャル博士は、人間の潰瘍の染色切片を顕微鏡で観察して、ヘリコバクター・ピロリ菌という、健康な人に一定の割合で見られるごく普通の細菌がたくさんいることに気づいた。そして潰瘍の組織切片にこの細菌が再三見られるので、ひょっとするとこれが潰瘍の原因ではないかと考えるようになった。この考えを教授に話すと、「とんでもない。そんなはずはない。潰瘍がストレスで起こるのは周知のことだ。君が見たのは、すでにできた潰瘍の二次感染だ」と言われた。
 しかしマーシャルは納得せず、常識に挑戦した。まず疫学的な研究をしたところ、患者のヘリコバクター菌の分布状態と十二指腸潰瘍とのあいだに強い相関関係が見られた。しかしこの所見では、彼の分野の研究者たちから受け入れられなかったので、やっきになったマーシャルは、培養した細菌をのみこみ、数週間後に内視鏡検査を行なって、胃腸菅のあちこちに潰瘍ができているのを実際に示した。その後に正式な臨床試験を実施して、抗生物質ビスマスとメトロダニゾ−ル(抗菌剤)を組みあわせて投与した患者が、酸阻害物質のみを投与したコントロール群よりもはるかに治癒率が高く、再発も少ないことを示した。
 この話を紹介したのは、新しい考えに対して心が開かれた医学生やレジデントなら、そして高級な設備を必要としない研究なら、独力でも医療に大変革をもたらすことができるということを強調したかったからだ。研究にとりかかる際は、いつでもこの精神でいくべきだ。どんな真実が潜んでいるかだれにもわからないのだから。


【『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン(角川書店、1999年)】


 快哉を上げたくなるエピソードである。まして私は、十二指腸潰瘍を患った経験があるから尚更だ。私の場合もピロリ菌が犯人だった。日本人にピロリ菌保有者は多いとされるが、はっきりした原因はわかっていない。個人的には「川の水を飲んだため」という説に一票。


脳のなかの幽霊 (角川文庫)