古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

言語も及ばぬ意識下の世界/『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック

 分離脳とは、重度のてんかん患者などに行われる手術で、右脳と左脳をつないでいる脳梁を切断した状態のこと。本書で取り上げられた人物は左右の脳が別人格となっている。

 分離脳の患者のこのような検査から、言語は知的機能の一つにすぎないとわかる。私たちは長いあいだ、人間が言葉を話せるというただそれだけの理由で、言語が最高の能力であると傲慢に決めつけていた。しかし言語は数ある能力の一つにすぎないとわかった。私たちの理解や行動にかかわる能力のすべてが、言語とつながっている、あるいは言語で表現できるわけではないのだ。これは自分の個人的知識のなかに、内的思考さえも立ち入れない部分があるという意味だ。おそらくこれが原因で、人間はしばしば自分自身と争うのだろう。頭のなかでは、意識が知りえないことも、起こっているからだ。


【『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック/山下篤子訳(草思社、2002年)】


 眼を例にしてみよう。意識している場合は、二つの眼の焦点が定まっている状態といえる。つまり、周りのものは見えなくなっているのだ。意識が鮮明になればなるほど、膨大な無意識の領域は背景に退けられる。


 意識は常に「漠然とした何か」に支えられている。時折、言いようのない不安や情動が顔をもたげることも珍しくはない。多分、意識というものは、夜空に閃く稲光のような状態で、周囲の殆どは闇に包まれているのだろう。


 瞑想というのは、意図的に意識を放棄し、無意識に沈潜する作業なのかもね。


 言葉ほど脆(もろ)いものはない。なぜなら、言葉はシンボルに過ぎず互いの想像力で補わなければ、意思の疎通が成立しないためだ。しかし我々は、言葉を頼りに、言葉を信じることなしにコミュニケーションをとることができない。若いうちは瞳を見つめ合うだけで信じられる恋人もいるだろうが、40過ぎてカミサンの眼をじっと見れば、「頭がおかしくなったの?」とでも言われかねない。


 しかし、だ。言葉を介さずしてコミュニケーションをとることは可能である。スポーツがそうだ。ボディ・ランゲージ。決められたルールに則って、味方の意図を鋭く感じ取り、敵の狙いを素早く見抜く。そしてスポーツは多くの場合、無意識でプレーされている。妙に考え始めた途端、信じられないミスを犯すのだ。


 唯識では、意識の深層に末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)、阿摩羅識(あまらしき/根本浄識)という存在を説いている。無意識の奥深くには時空をも超越してつながる「人類の意識」があるのかも知れない。


論理ではなく無意識が行動を支えている/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
脳は宇宙であり、宇宙は脳である/『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』デイヴィッド・イーグルマン