古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

名文に脱帽/『もう牛を食べても安心か』福岡伸一

 ・名文に脱帽

『生物と無生物のあいだ』福岡伸一
『ポストコロナの生命哲学』福岡伸一、伊藤亜紗、藤原辰史
『悲しみの秘義』若松英輔


 面白みのないタイトルに騙(だま)されることなかれ。狂牛病(著者は敢えてBSEとは書かない)という象徴的な“事件”を通して、類い稀な身体論、文明論、生命論が説かれている。著者が振るうのは「分子生物学」という名のメスだ。よくもまあ、これだけの内容を惜し気もなく新書で刊行したものだ。


 もう一つ特筆すべきことは、評価らしい評価をされてこなかったルドルフ・シェーンハイマーの学説に光を当てたことである。福岡氏は、学問の権威におもねることなく、ノーベル賞を受賞した「プリオン説」の功罪にも言明している。


 狂牛病の犯人は、恐るべき進化を遂げていた。そして、羊から牛へ、牛からヒトへとテリトリーを拡大しつつある。そもそも、動物にとって「食べる」意味は何か? 米国産牛肉輸入の裏側にある政治的意図とは? 臓器移植の身体的な意義、人為が環境に与える影響、分子生物学から見たカニバリズム、そして狂牛病が象徴しているものは何か?――まるで、手に汗握るミステリーさながらだ。


 福岡氏の近著『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)がベストセラーになっているのも大いに頷ける。

 彼(シェーンハイマー)は、当初、食物を構成する分子のほとんどは、生物体内で燃やされて排泄(はいせつ)されるだろうと思っていた。ところが実験結果は違った。分子は高速度で身体の構成分子の中に入り込み、それと同時に身体の分子は高速度で分解されて外へ出ていくことが判明したのだ。つまり、生命は、全く比喩ではなく、「流れ」の中にある。個体は感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思えるが、ミクロのレベルではたまたまそこに密度が高まっている分子の、ゆるい「淀み」でしかない。その流れ自体が「生きている」ということである。

 ルドルフ・シェーンハイマーがその短い生涯をもって明らかにしたことは、生命は流れの中である、あるいは、流れこそが生きているということである。このような観念は、翻って考えれば、むしろ私たちにとってなじんできた、ある意味でうけいれやすい生命観でもある。それは通奏低音として様々なところに現れている。たとえば、鴨長明の『方丈記』の冒頭などあらためて引くまでもないほどである。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし」

 食物としてのタンパク質は、その起源が牛や豚、鳥などの動物性タンパクであるにせよ、大豆や小麦に含まれている植物性タンパクであるにせよ、それがもともと他の生物の一部であったことに変わりはない。そして、それらのタンパク質はその生物体内で個々に特有の機能をもっていた。タンパク質の機能は、そのアミノ酸配列によって決定される。つまり、アミノ酸配列は情報を担っている。しかし、他の生物のタンパク質情報は、捕食者にとっては必要がないばかりか、有害ですらある。なぜなら、外部から入ってくる情報はノイズとして、自らの情報系に不必要な影響をもたらすからである。したがって、消化とは、食べ物を吸収しやすくするため細かくする、という機械的な作用よりも、もともと生物がもっていたタンパク質の情報をいったん解体して、自分の体内で自分に適合した形で情報を再構成するための出発点を作る、という重要な意味をもっているわけである。これが消化の生物学的意義である。
 この情報解体のプロセスが十分でないと、本来、別の生物がもっていた情報が自分の身体に干渉することになる。そのため、動物の消化システムは、非常に多種類の消化酵素を用意して臨戦態勢を敷いている。特に、タンパク質の構造には最も多くの情報が含まれるので、これを速やかに解体するために、特異性の異なる消化酵素、つまり違う攻撃部位をもつタンパク質分解酵素が準備されている。

 生命の連鎖が絶え間ない情報の解体と再構成の流れによる平衡状態である、という生命観をさらに敷衍(ふえん)していくと、臓器移植という考え方は生物学的に非常な蛮行といえることになる。消化などの情報解体プロセスを一切経ることなく別の人間の肉体の一部をまるごと自分の体内に取り入れるわけだから、究極のカンニバリズムでもある。
 そこに存在する一切合切の情報はそのまま私の身体に乗り移ってくるのだ。宮崎(哲弥)氏の言葉を借りていえば、臓器移植とはそこに宿るすべてのカルマを引き受ける覚悟がなければできない行為なのである。

 環境に対する人為的な組み換え操作は、一見、その部分だけをとるとロジックが完結し、人間にとって便利になったように見える。たとえば牛に高タンパク食を与えれば効率的に肥育できる。あるいは、大豆に農薬耐性の遺伝子を導入すれば、強力な除草剤を散布しても大豆だけは生き残るようになる。しかし、動的な平衡系には部分のロジックは通用しない。すべてのことは繋がっているのである。
 操作の本質、それは多くの場合、効率を求めた加速である。早い肥育、大きな収穫、加速には必ず余分なエネルギーの投入があり、そこには平衡の不均衡が生じる。不均衡の帰趨はすぐには現れることがないし、現れるとしてもその部分に出現するとは限らない。乱された平衡は、回復を求めて、新たなバランスを求めて、ゆっくりとリベンジを開始する。どこかにためられた不均衡は地下にもぐって目に見えない通路を分岐しながら思わぬところに噴出してくるのだ。狂牛病が変幻自在に種の壁を越えて、様々な場所に現れたことは、まさにそういうことだった。