茶柱


 日常生活は微妙な幸不幸に支えられている。不幸の後を幸福が和らげ、幸福の隣を不幸が駆け抜ける。紛(まが)うことなく存在するのは「今」という目の前の一瞬だけだ。


 女性相手の雑誌の売れ行きは“占い記事”が左右するという話を聞いたことがある。今週、今月を占う言葉は中途半端で曖昧極まりなく、当てど無く人生を歩む女性連中には好まれるようだ。


 かくいう私も幼少の頃には“花占い”なぞしたものだ。好きな娘(こ)が自分のことをどのように思っているか――「好き、嫌い、好き、嫌い……」などとゴモゴモ口ごもりながら、都合の好い結果が出るまで手当たり次第に花を毟(むし)り取ったものだ。


 はたまた西部劇の影響を受けて、十字路に立つ度に十円硬貨をクルクルと放り投げ、進行方向を決めたりしたこともある。悪ふざけして全ての十字路でやったところ、とんでもない場所へ辿り着き、帰るのに一苦労したことも今では懐かしい。

 私は茶柱だ。
 普通ならまず見落としてしまうほど小さな、あしたへ希望をつなぐことなどとてもできない、茶柱だ。


 世一の母親は「まるで宝くじにでも当たったみたいに有頂天になり、家の者に見せた。(中略)『そろそろ何かいいことがあっても罰は当たらないわよねえ』」と語る。


 年頃であるにもかかわらず恋人もいない世一の姉と、人生の目標を遠い過去に置き忘れてきた父親は言下に否定する。ささやかな幸福の予感は家族に伝播(でんぱ)する迄に到らなかった。


 それにしても茶柱に幸運を予期させる力を付与した文化の正体は何なのだろう? 確率の低い現象に立ち会えたという事実が、稀少性の高い幸福を招くとでもいうのか――。


 ささやかな演出を施した茶柱は、丸山のペンにかかると“自立した意志”を持つ。

 母は残ったお茶を私(茶柱)といっしょに飲み干した。私は、粗末な朝食や悲哀のかけらや儚(はかな)い望みが詰まった胃袋のなかでも、かなり無理をして垂直に立っていた。ほどなく世一がヤカンをひっくり返してしまい、熱湯を指の先にほんの少し浴びただけで、大音声を張りあげた。その拍子に私は横倒しになった。


 病気のため、真っ直ぐに立つことも歩くこともできない世一は“縁起の良さ”を否定する者なのか? そうではあるまい。自立した魂を持つ少年は、自ら汗を流すことなくして妙な運勢に期待する精神を嫌ったのだろう。



千日の瑠璃〈上〉 (文春文庫) 千日の瑠璃〈下〉 (文春文庫)