義手


 10月末日の月曜日を語るのは「義手」だ。


 このページは丸山の特徴がよく出ている。対照的な叙述、意表を衝く喩(たと)え、幾何学的な形容、反復によるリズム、等々――。

 私は義手だ。
 茸採りにかけては比肩する者がいないといわれている男、彼の左の腕を補う、旧式の義手だ。


「茸(きのこ)採り」の文字を目にして誰もが自由に動く腕を連想するはずだ。しかし、この後に義手と続くことによって妙なアンバランス感を抱かせられる。その落差が「旧式」という形容によって一層深まる。


 穴場と察する場所へ向かう男は尾行を恐れ、「しょっちゅう振り返って」〜「山へと入って行った」。後ろ向きになりながら前へ進む行為が、男の首の如くねじれた感覚を誘う。


 男が、「色と形が人間の脳に似ているマイタケ」を発見してかがみこんだとき、その傍らの「毒蛇」に気づく。男はどういうわけか、草刈り鎌を使わずに「義手」で攻撃を加える。「その罪もない動物はすでに最初の致命的な一撃を三角形の頭にくらって悶絶していた(同頁)」。


 茸をどっさり抱えて山を下ってゆく。
「途中、谷川へ寄り、蛇の血を浴びた私(義手)を取り外して流れに浸した」。金属製の腕に「血」ほど似つかわしくないものもあるまい。


 ここで「義手」の嘆き節――。

 私はがっかりした。もう長いこと左手の代わりを立派に果たしてきたつもりなのに、彼は私よりも鎌のほうを大切に扱ったのだ。できることなら、このまま水に流されてどこか遠くへ行ってしまいたい、そんな気分だった。


 硬質な義手の哀愁。何とも言えぬおかしみがある。水に流されたところで沈むのがせいぜいだろう。機能を重視される無機質な「義手」のしみったれたボヤキは、落差による笑いを生む。


 と、そこへ世一が登場する。難病に冒されながらも自立した魂を持つ少年は、様々な形容を施される。このページではこうだ。

 全身の揺れが片時もとまらない奇妙な少年。


 世一は他人の眼に映るありとあらゆる外見で描写される。それがそのまま、皮相的なものの見方しかできない人間たちへの辛辣(しんらつ)な批判となっている。「全身の揺れが片時もとまらない」世一は微動だにしない精神を生きていた。

 だが、ちょうどそこへ通りかかった少年の私(義手)に対する扱いは申し分なかった。


 世一は川砂をこすりつけて義手を念入りに洗い、自分のシャツで水気を拭き取り、

 日当たりのいい岩の上にそっと置いて、そっと立ち去った。


 義手の誇りと尊厳をすくいとるような世一の仕草。あるべきものの、あるべき姿を直ちに悟り、そのまま行動に移す。恩着せがましい態度は全く見えない。世一にとってはそうした行為が当たり前のことであり、自然な振る舞いであるのだ。


 世一の生は、まほろ町という小宇宙のリズムと合致し、完全なる調和を象徴する。



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