古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

『お宝ハンター鑑定日記』羽深律

 数ヶ月振りに本を読んだ。


 手持ちの本を売るようになってからというもの、全く読書する意欲が失せていたのだが、本書を読んだのにはワケがある。実は、著者から直接頂いたのだ。私は抜け目なく「読んだら売りますぜ」と御礼の後に付け加えておいた。


 古物商の世界が軽妙な筆で綴られている。それもその筈、羽深(はぶか)氏は『月刊 宝島』の編集に携わっていた時に小説新潮新人賞を受賞している文筆家だ。著書には手相の本や『現代語訳 南総里見八犬伝(1〜6)』(宝島社)というものまである。


 こうしたことを私は全く知らなかった。羽深さんのお店が私の住まいから近い場所にあり何度か買い物をした。二度目に行った際だと記憶するが、同業である旨を告げ正体を明かした。嫌な顔をされることも覚悟したが、羽深さんはロマンスグレーの長髪に挟まれた端正な顔をほころばせた。以来、扱う物は些(いささ)か違うが色々とアドバイスをして頂いている。


 人生に大切なのは心であることは論を俟(ま)たないが、手っ取り早く人生を豊かにするのは、やはり物である。


 人間の小さな身体は所有欲という触手を伸ばし、色鮮やかに自らを飾ろうとしているのだろうか? あるいは、自己の分身として傍に置き、生きた証としての置き土産(みやげ)なのかも知れない。


 人間というのは勝手極まりない動物だ。多分、物に対する愛情も買った瞬間が絶頂期であり、時間が経つにつれ段々冷めてゆく。買った時にはあれほど光を放っていた“物”も、いつしか部屋の片隅に追いやられ、挙げ句の果てにはゴミとなる運命だ。結末だけを見ればゴミを買っていることになる。消費とはゴミを生産することかしらん。


 人の欲望が物を買わせ、その欲望が失せた時、持ち主の手を離れる。そうして一旦は死んだ物が再び新たな買い手によって生を吹き込まれる。小さな興亡盛衰が垣間見えて何とも言えぬ興趣がある。まあ“蘇生のドラマ”と言ってしまえば大袈裟になるだろうが、手放された物には、別な人間の欲望に火を点ける力がまだ充分残っているのだ。


 不要となった物を売るには、それなりの目が利かなければならない。失敗から学び、貪欲なまでに売れる物を探す眼つきは狩猟者を思わせる。


 ガラクタが化けたエピソードが多数、紹介されている。ギャンブルなどで儲けた話と違って、シンデレラ姫の変身を思わせる痛快さがある。JBLの大スピーカーを“火事場の馬鹿力”さながらに運んだ件(くだり)には笑わせられた。古物商にとっては仕入れが火事場と言えないこともないだろう。


 前書きで著者は古物屋の自由な様を紹介した後でこう記している――

 古物屋にはメーカー、問屋がないだけでなく、定価もない。どこで仕入れ、幾らで売っても勝手なのだ。ただし、扱うのは「古物」──。つまり一度表舞台から消えた物に限る。なんでそんな物が売れるのか? やはりここが人の国であるからだ。


 処分に困り果てるゴミを生み出す飽食の時代。あなたが今、捨てようとしているゴミはひょっとすると他の御仁にとってはお宝かも知れない。


 ガラクタを蘇らせる眼力と薀蓄(うんちく)が飄々(ひょうひょう)とした筆致で描かれ、一読後、それとなく、わけ知り顔になっている自分に気づくだろう。知人であることを差し引いても充分、堪能できた。


 お店は都営新宿線西大島駅」から徒歩3分。明治通りをJR亀戸駅方向に歩いてゆくと左手に大島銀座商店街がある。入口から入って左側2軒目。本はあまり置いてない。レコードと道具がメイン。お近くの方は是非、一度行ってみて下さいな。【※店舗はその後なくなった模様】→【千葉県市川市八幡に移転