古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

道徳と政治を混同してはならない/『資本主義に徳はあるか』アンドレ・コント=スポンヴィル

「政治とカネ」の問題がかまびすしい。電波利権に浴する人々が口角泡を飛ばして政治家を糾弾している。去る参院選では「クリーンな政治」を掲げた政党もあった。ひょっとして政治家はクリーニング屋になろうとしているのだろうか?


 ちょっと考えてみよう。クリーンな政治は必ず企業や国民に対してもクリーンさを求めることだろう。果たして我々はピューリタンのように清らかで厳格な社会を望んでいるのだろうか? 振り返るとピューリタン革命(清教徒革命)も社会の歪(ゆが)みに端を発していた。現代同様、17世紀のイギリスも貧富の差が拡大していたのだ。で、イングランドといえば結局、王政復古になってしまった。


 1620年、メイフラワー号は新天地アメリカを目指して出発した。船に乗っていた3分の1はピューリタンであった。


北米イギリス植民地帝国史 前編 その3


 そうすると、クリーンな政治というのはアメリカの陰謀なのか? そうかもしれない。アメリカは厳格なまでに清らかだ。堕胎は聖書に反するということで毎年キリスト教原理主義者の手で医師が殺されている。悪党を見つければ、たとえ他国であろうとやっつける。仮に戦闘の根拠がデタラメであったとしてもだ。世界中の国々に民主主義の風をなびかせ、自国の経済システムに組み込むことがアメリカの至上命題である。


経済侵略の尖兵/『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス


 だが待てよ。この論理は内側では通用するが外側からは理解されない。「所詮、民主主義の押し売り、武器のマルチ商法だろ?」と言われればそれまでだ。


 アンドレコント=スポンヴィルは政治と道徳が別次元であることを明快に説いている。

 なぜなら、第一に、道徳的な問い(「私はなにをすべきか?」)は、どんな職業についているひとであれ、たとえば株主であれ企業主であれ、あらゆる人に提起されるものだからです。もちろん、経済的な問いと呼べるもの(「私はなにを所有することができるか?」)にかんしても事情は同様です。私たちのうちどれほど豊かな人であれ、どれほど貧しい人であれ、道徳とも資本主義とも無縁ではいられません。はたらくことや貯蓄することや消費することは、なされて当然のいとなみですが、そのどれもが自身が望むと臨まざるとにかかわらずこの資本主義というシステムに参与することです。だからこそ、そのシステムの道徳について問いかけるのは意味あることなのです。


【『資本主義に徳はあるか』アンドレコント=スポンヴィル/小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2006年)以下同】


 例えば「政治とカネ」を糾弾する人々が官房機密費問題には口を噤(つぐ)んでいる。完全黙秘、完璧な静寂。針の落ちる音が轟くほどの静けさだ。新聞記者やジャーナリストの面々は、長らく与党であった自民党から酒食を振る舞われ、女をあてがわれ、現金を手渡された。「政治とカネ」を問題視する彼等は、「メディアとカネ」を不問に付そうとしているのだ。

 要するに道徳と政治を混同してはならないのです。道徳は個人的なものです。あらゆる政治は集団的なものです。道徳はその原理からして利害とは無縁です。どんな政治もそうではありません。道徳は普遍的なものであり、あるいはそうなろうとめざすものです。あらゆる政治は特殊的です。道徳は目標を固定するものだとすれば、政治はとりわけ手段に関心をはらうものです。だからこそ、私たちにはどちらもが必要なのであり、両者のちがいもまた必要なのです。道徳家の説く純粋主義に欺かれてはなりません。ほかの人びとが利害を問題にしているときに道徳しか問題にしないのは、人非人の思う壷にはまることです!


 この指摘には目から鱗(うろこ)が落ちた。政治とは利益の調整である。つまり、恩恵に浴することができなかった人々からは、いつだって批判され得るのだ。「バラマキだ」と。政治が損得という原理で動いている以上、そこには腐敗がつきまとう。票とカネのパワーゲームが政治であるならば、いたずらに道徳性を求めるよりもゲームのルールを誰の目にも明らかにした方がいい。


 本来であれば国政は政治家と国民の綱引きであるべきだが、官僚の存在がややこしくさせている。この国では政治家が政治家として機能していないがゆえに、官僚が一切を仕切っている。法律は霞が関文学によって書かれており、「てにをは」や句点一つで意味を変える。国民はもとより政治家ですら違いが理解できない始末だ。


「全ての官僚が悪いとは言えない」なあんて枕詞(まくらことば)が流通しているが、一部の悪人を支えているのは多くの真面目な官僚なのだ。いっそのこと、全員を取り換えた方がよい。

 私たちの個人的な欲望は私たちを対立させます(ほとんどのばあい私たちの欲望するものが同じであるだけになおさらです)。万人に共通する理性にのみ、私たちを結びあわせることができるのです。ですが、この力は、すべての力がそうであるように、もし私たちがそれにすっかり身をゆだねてしまったなら、危険なものともなります。疲れているときや、習慣に身をまかせているとき、数にのみこまれてしまうとき、私たちはそうした危険へと押しやられることになります。集団においては、そしてそれを構成している人数がおおくなればますます、愛は道徳へと、そしてばあいによっては道徳主義にまで低下していく傾向を帯びます。道徳は政治へと、つまりは権力関係へと低下していく傾向を帯び、政治は技術や経済や管理へと低下していく傾向を帯びるのです。
 この【重力】は、考察の対象になる集団に応じて(企業と政党とでは同じではありません)、そしてとりわけ集団の規模に応じてさまざまに変化します。


「重力」とはシモーヌ・ヴェイユが『重力と恩寵』で説いた作用で、「人々を下降させる一切の力」を意味する。


 道徳はわかりやすい。わかりやすいからこそ攻撃の武器となる。そして道徳による攻撃は大衆の感情を煽り立てる。で、扇動された大衆はファシズムに向かって暴走を始めるのだ。


 菅直人首相が誕生しただけで、低迷していた支持率がいきなり反発した。世論の振幅の激しさが全体主義傾向を雄弁に物語っている。人々がストレスにさらされ不平不満が溜まると、破壊への衝動が膨らむ。そして、群衆の中から石を投げるようなタイプが増えるのだ。


 道徳で政治を語る人物を信用してはならない。