彼の鋭敏な鼻は太い匂いの束を、いちいち糸にときほぐした

 地上の空気は湿っぽい運河のように鼻をつく臭気を含んだままよどんでいた。人間と動物の匂いが混じっていた。食べものと病の匂い、水と石と灰と皮の臭い、石鹸と焼きたてのパンの匂い、酢で煮立てた卵の臭い、ヌードルや磨きたての真鍮の臭い、サルビアやビールや涙の匂い、脂(あぶら)や湿った藁、また乾燥した藁の匂い。何百、何千もの匂いが、ねっとりした粥(かゆ)状に、通りの谷間(たにあい)を満たしていた。屋根にへばりつき、地階にあっては層をなしている。そこの住人たちは、あらためてこの粥の匂いを嗅いだりしない。そのなかで生まれ、のべつこのなかにひたってきた。呼吸する空気であって、まさしくこの空気があればこそ生きていられる。永年にわたって着なれてきた、ホッコリと暖かい衣服のようなものであり、もはや匂いなどしないのだ。肌につけていることすら気づかない。そのなかでひとりグルヌイユは別だった。いつも初めて立ち入ったかのように鼻が働く。ムッとする匂いの堆積を嗅いだだけではない。その匂いをことこまかに嗅ぎ分けた。彼の鋭敏な鼻は太い匂いの束を、いちいち糸にときほぐした。もうそれ以上はほぐしようのない細い糸にまで選り分ける。その糸を綯(な)ったり、ほぐしたりするのは、とてつもない喜びというものだった。


【『香水 ある人殺しの物語』パトリック・ジュースキント池内紀〈いけうち・おさむ〉訳(文藝春秋、1988年/文春文庫、2003年)】


 小説は視覚的なものと聴覚的なものに二分されるが、この作品は嗅覚を前面に出している稀有な作品だ。


香水―ある人殺しの物語 (文春文庫)