古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

あらゆる信念には精神を曇らせる効果がある/『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ

 ・あらゆる信念には精神を曇らせる効果がある
 ・非暴力の欺瞞
 ・真実在=リアリティ


 各章の冒頭にクリシュナムルティの言葉を掲げ、思索をめぐらしている。ススナガ・ウェーラペルマはスリランカ出身で、若き日よりクリシュナムルティに師事した。訂正しよう。クリシュナムルティのように生きた。


 実に表現が難しいのだが、「クリシュナムルティの思想」というのは言葉としてはおかしくないが、どうも腑に落ちない。彼は思想や教えを説いたわけではないからだ。その「反逆の精神」は一切の権威、教義、組織、文化、伝統、概念、価値観を否定した。これらは社会的・歴史的な「条件づけ」に過ぎず、精神の宇宙をひたすら観察し、内なる真理に従えというのがクリシュナムルティのメッセージだ。クリシュナムルティが語ったことは、たったこれだけなのだ。


 先ほど「師事した」と書いて訂正した。彼は「ありとあらゆる執着から離れ、私の言葉からも離れよ」と言い切っており、いくつかの学校はつくったものの、教団や組織という形態を断じて認めなかった。実際、14歳の時に神智学協会の指導者によって〈世界教師〉として見出されたクリシュナムルティは、後に「星の教団」のリーダーとなったが自らこれを解散している。

 では、本書の内容に触れよう――

「精神が信念から自由なとき、精神は見ることができる」
 ――クリシュナムルティ


 信念とは、精神が熱心に受け入れるけれどもそれ自体はなんの実体ももたないもののことである。信念とは、本当だと見なされてはいるが、しかし信頼できる証拠や事実によって支持されていない仮説や理論のことである。信念とは、精神が当然のことと思ってきた格言や第一原理のことである。本章での討論は、もっぱら宗教的および心理的性質の信念に関わっている。科学者はなんらかの仮説で調査を開始するかもしれないが、しかしもしそれが実証できなければ、それを後で放棄するだろう。いやしくも有能な科学者は、たんに幾世紀ものあいだの受容によって信念が是認されてきたからといって、あるいは彼が感情的にその信念に執着しているがために、その信念に固執する、などということはない。が、宗教的信念の場合は、厳しい精査にかけられることは稀である。それらはめったに問い正(ママ)されない。ある種の信念は試験され、立証されうる。私は一度もモスクワに行ったことはないが、しかしそれでもその存在を信じる。が、神の存在や再生の可能性といったものを含む宗教的性質の信念は、実際にチェックできるだろうか? これらの「事実」は立証が困難なので、それらは信念の領域、証明されない領域に追いやられねばならない。


【『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ/大野純一訳(めるくまーる、1993年)以下同】


 言われてみるとその通りだ。我々の思考はいつだって二元論に毒されている。「あるかないか」「強いか弱いか」「高いか低いか」……。では信念について考えてみよう。信念とは「反応の仕方」に過ぎない。つまり鏡に例えるならば、一定の反射角度を維持しているだけの話だ。で、角度が変わらないことを我々は「信念の人物」として認定し、おかしな角度の場合は「頑迷固陋(がんめいころう)」と嘲笑うことになっている。この違いは何かというと、「より多くの人々に受け入れられるかどうか」という一点に尽きる。いわゆる社会性ってやつだ。


 では、「社会性」とは何か?
 多くの人が納得する道理のことだ。
 で、誰が決めたんだ?
 多分、古(いにしえ)の賢者と我々のご先祖様だ。
 本当に?
 そう訊かれると実のところはわからない。ただ何となく……。
 すると、何となく賛同しているのか?
 ったく、お前はガムテープみたいにしつこい野郎だな。今日からお前のことを「ねんちゃ君」と呼ばせてもらうよ。だから、社会性ってのはだな、「みんな」と一緒に歩いて行くことなんだよ。お前だって一人じゃ生きてゆけないだろう。
 とすれば、ただ「みんな」に付き従っていることになるよな?
 そうだよ、それが社会性だよ。


 我々は親や学校から教育されることで、精神を鋳型(いがた)にはめ込まれ、否応(いやおう)なく社会の枠組みに閉じ込められる。幼児は自分がどう振る舞うべきかを大人の反応から学ぶため、善悪という価値観は自動的に刷り込まれる(インプリンティング)。このようにして自我は形成されてゆくわけだが、教育期間を終えて社会に出ると今度は、「成功」という価値観に支配される。資本主義というフィールドで人々は走り続ける。いつだって競争、競争、競争だ。これぞ競争原理。


 実はこの競争に勝つことが「信念」と考えられている節があるように思う。


 引き続き、宗教的信念について――

 ほとんどの人々は、容易に宗教的信念や説明を受け入れる。なぜなら、受け入れることによって、調査する手間が省けるからである。今日、静かに坐って宗教的問題を無執着に、学究的情熱をもって吟味する時間とエネルギー、いわんや気組みをもっている人は、ごくわずかである。哲学的探究はきわめて骨が折れる。懐疑の海で揺れ動いている精神は、信念の錨に繋がれると、突然休らぎ(ママ)を見出す。信念は人に安全・安心感を与えるので、慰めになる。安定を渇望している精神は、信念の不可欠の一部である不合理な要素によってその渇きが癒されることを見出す。人生の根本的問題に直面したとき、われわれは「私はじつは知らない」という謙虚さを欠いている。己の無知を正直に認めるよりは、むしろ精神は、自分が集めてきた信念は一定の知識の満足すべき代用品だと傲慢にも思い込むことによって、自己欺瞞を犯す。信念は、迷った精神にとって鎮痛剤なのだ。が、遅かれ早かれ信者は、たんに彼のもともとの信念を維持するために、補足的信念を考案しなければならないことを見出す。かくして精神は精緻な空想の殿堂、現実の世界からかけ離れた夢の世界を構築しはじめる。人は、信念によって損なわれねじ曲げられた精神が、いかに明確に考えうる力を失うかに気づく。信者は膨大な知識を集めるかもしれないが、しかししばしばそうであるように、もしそのすべてが、すでに彼の精神が傾倒している信念を支持するために用いられるのなら、いったい何の価値があるのだろう?


 端(はた)から見れば、明らかな邪教であっても「安心感があるからオッケー」という人々が確かに存在する。だが、ここで吊るし上げられているのは宗教そのものである。つまり、教義を受け入れた――信じた――時点で「教義の奴隷」となっているという指摘だ。


 信じることは考えなくなることだ。なぜなら、考えることは「疑う」ことであるからだ。恋する二人を見てみろよ。何も考えちゃいないよ。


 ただし、考えることで深まってゆく「信」を否定することはできない。つまり、信と懐疑とは常に繰り返しながら、止揚される関係にある。


 だが、そうであったとしても最後の件(くだり)は信仰者にとって頂門の一針ともいうべき指摘で、自省が求められる。要は「与えられた教義」を懐疑しながら、「自分の内側に確固たる教義を再構築する」姿勢が不可欠なのだ。これが著者のいう「自分で考える力」であろう。


 では、信念が精神にどのような影響を与えているのか――

 あらゆる信念は、意識のスクリーン上の暗い影のようなものである。より多くの信念を人が蓄積すればするほど、精神はより暗くなり、そして濁ってゆく。信念は精神の盲点である。信念は、人が平静を乱されないよう、けっして暴露すまいとする精神の暗部を占めている。ある国々では、一定の大事な信念を「冒涜する」こと、あるいはそれについて不信心、不敬なことを言うことすら禁じられる! あらゆる信念には精神を曇らせる効果があるというのに、なぜ「よい」信念と「悪い」信念をしきりに区別したがるのか? 人間は同胞を愛するべきだという信念のほうが、すべてのテロリストは処刑すべきだという信念より、ともかくも優れているというもっともらしい見解がある。ある信念のほうが他の信念よりもよく、それゆえ維持する価値があるということが含蓄されているのである。さて、実際には人間がもっているのは同胞愛以外のあらゆるものであるとき、なぜたんなる理論にすぎない人間の同胞愛を信じるのか? 人間は利己的で、暴力的で、残忍である。それが「あるがまま」の状態である。が、同胞愛への信念は、「あるがまま」の醜さを隠蔽するのを助ける。もしわれわれが心から兄弟のように親密だったら、同胞愛への信念を考え出す必要が生じただろうか? 同胞愛を信じる人は、テロリストは殺されるべきだと主張する人と根本的には異ならない。なぜなら両者の精神は暴力によってそこなわれているからである。前者のひそかな暴力と、後者のあからさまな暴力には、本質的な相違はない。問題を心理的に見るなら、すべての信念は、精神に対するそれらの影響に関するかぎり同じなのではないだろうか? なぜなら、ある種類の条件づけと、他のそれとのあいだには、ほとんど優劣はないからである。われわれの関心を呼び起こすに値する唯一のことは、ある種の条件づけが他のそれより望ましいかどうかではなく、精神がすべての条件づけからまったく自由であるか自由でないかである。そのうえ、人はたんに規範や基準を適用するだけで、信念を評価することができる。われわれの倫理的基準が、「正しい」ものと「間違った」もの、「善」と「悪」とを判別するのに用いられる判断基準である。たとえすべての人工的基準が、太古から神聖不可侵と見なされてきたとしても、それを疑ってみる必要があるのではないだろうか? それらは精神の条件づけの一部なので、必然的に疑わしいのではないだろうか? 信念という、同様にして条件づけの産物であるものを判断するのに、なぜ条件づけの物差し(すなわち基準)を用いるのか? それゆえ、信念は「正しい」ものでも「間違い」なのでもない。すべての信念は微妙に精神に影響し、それゆえ明晰な知覚を妨げる。


 参りました。私の負けだ。大地に膝を屈してから既に3時間が経過している(ウソ)。私はそこまで「考えて」いなかった。結局善悪を対立する二元論として思考する限り、世界から紛争がなくなる日は来ない。そして、信念の正当性・絶対性が高まれば高まるほど、争いは激しくなってゆく。遂には「大量殺戮」をも肯定するようになってしまう。これこそが人類の歴史であった。ちなみに日蓮は「善悪一如」(ぜんあくいちにょ)と説いている(「御義口伝」〈おんぎくでん〉)。


 教育がシステム化されるほど人間は劣悪な形状に歪められる。赤道に近い南の島で文明の恩恵に与(あずか)っていない人々が、なぜああも豊かな表情をしていられるのか? ものが豊かになればなるほど、何かを失ったような気になるのはどうしてなのか? そんな疑問の答えがここには示されている。


 我々の信念は、「条件づけされた反応」に過ぎない。まず、この事実に気づくところから本当の自分の道を歩んでゆきたい。


アッシュの同調実験/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム