非暴力の欺瞞/『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ


 クリシュナムルティガンディーとも親交があった。しかし徹底してガンディーの非暴力を批判した。「非暴力を説く前に、暴力という現実を見つめるべきだ」というのがクリシュナムルティの主張であった。


 この思想をススナガ・ウェーラペルマが咀嚼(そしゃく)している――

 もし人が内面的に暴力から自由でなければ、外面的(すなわち政治的、社会的)な非暴力を説いて何になるだろう?
 正真正銘平和的な人は、けっして非暴力になるべく努力する必要はない。なぜなら彼はすでにあの祝福の状態に生きているからである。そのような人にとって非暴力の理想は、人生にはまったく無関係の、無意味な抽象である。非暴力の理想は、暴力的な精神によってでっちあげられたのだ。その理想はたんに偽りであるだけでなく、不純でもある。なぜならそれは、暴力という不純な土壌で芽生えたからである。憎悪に満ちた精神は、真に非暴力的な状態の最高の顕現である慈悲心を知ることはできない。暴力的な精神は、「想像された」非暴力の状態を憶測し、理論づけることができる。それゆえ、暴力的な精神によって発明された理想は、表向きはいかに気高く見えようと、必然的に架空のものである。そのうえ、怒った人が非暴力の理想に固執するとき、彼の怒りは本当に消えるのだろうか、あるいは衰えることなく持続するのだろうか? 起こることはむしろ、「理想」が彼の怒りという事実を隠蔽するのを助けてしまうということである。ある場合には、怒りは聖人のような装いのもとに隠蔽される。もし暴力が私の真の本性なら、そのときにはそれが「あるがままの状態」であり、だからそれに充分に直面するほうがはるかに賢明なのではないだろうか? 非暴力という「あるべき」状態の概念は、すでに説明したように事実無根である。なぜならそれは、精神によって投影されたものだからである。もし私が、この特定の理想だけではなく、理想という理想をすべて追求することのまったくの虚偽と不毛を見抜くことができさえすれば、そのときには突然、私は全注意を傾けて「あるがままの状態」を観察することができるようになる。精神が理想を脱ぎ捨て、気を散らさなくなるとき、それはついに内なる暴力を正直に知覚する。精神がもはや逃避せず、暴力の存在を認め、そしてその状態を完全に理解するとき、暴力はひとりでに消え去ってゆくのではないだろうか?


【『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ/大野純一訳(めるくまーる、1993年)】


 クリシュナムルティはある雑誌のインタビューで、ガンディーの非暴力運動が「実際には一種の暴力」であるとまで言い切っている。なぜなら、非暴力運動は暴力に依存しているからだ。ここに非暴力と暴力を取り巻く関係性の本質があるのだ。そしてそのまま「理想」と「現実」にも敷衍(ふえん)される。クリシュナムルティが「理想」をも否定する理由がここにある。

 運動という運動がバラバラになった力を集めるものである以上、おのずと暴力性をはらんでいる。力というものは何らかの圧力を与えるものだ。「バランス・オブ・パワー」という言葉が暴力を正当化し、世界基準に格上げしたのである。


 ガンディーによって大英帝国から独立を果たしたインドは、1974年5月18日に核実験を行った。実験のコードネームは「微笑むブッダ」であった。これが、非暴力の成れの果てだ。


気づきの探究―クリシュナムルティとともに考える