古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

デモ行進をしただけで殺される人々/『シャヒード、100の命 パレスチナで生きて死ぬこと』アーディラ・ラーイディ

 数字は個別の物語を捨象する。例えば、完全失業者数は359万人(2009年7月)、65歳以上の人口は2640万人(2006年9月)、交通事故による死者数は5155人(2008年)、自殺者は3万2249人(2008年)などを見ても明らかなように、個々人の顔が全く浮かんでこない。数字は固有性を消失させる。


 パレスチナ人であるという理由だけでイスラエルユダヤ人は、1948年以降パレスチナ人を殺戮し続けている。以前、パレスチナ人死者数の累計をネットで調べたが見つからなかった。それが、たとえナチスホロコーストを上回る数であったとしても驚くには当たらない。

 数字だけでは人の心は動かせない。人の心を揺り動かすのは「物語」である。命を奪われた人々は決して、いてもいなくてもいいような類いの人間ではなかった。彼等は確かに存在し、確かに生きていた。だが、虫けらみたいに殺されていった。


 忘れてはならないものがある。それを忘却することは罪であるといってもいいだろう。本書は、忘却に対する小さな抵抗を試みている。2000年9月に始まったアル=アクサー・インティファーダ第二次インティファーダ〈「インティファーダ」は民衆蜂起の意〉)で最初に殺された100人の紙碑である。

 インティファーダが始まるとアサーフ(※アブドゥルハミードの愛称)は緊急医療チームに志願し、ほとんどの時間を負傷者の救助や彼らの看病に費やすようになった。
 2001年1月7日、彼の遺体はネツァリーム交差点の近くで見つかった。前夜11時に父親の家を出たのちの彼の行方は分からない。翌朝、遺体が発見されたとき、片手の指はすべて切り落とされ、親指がかろうじてぶら下がっているだけだった。もう片方の手と腕とあごの骨は折られ、身体じゅうあざだらけだった。両手首の傷は、彼がきつく縛られていた証拠だった。その晩その地域で、イスラエル兵との衝突は1つも報告されていない。にもかかわらず、アサーフは明らかに拷問された揚げ句、20発以上の弾丸で、身体を穴だらけにされたのだった。(アブドゥルハミード・ハルティー、34歳)


【『シャヒード、100の命 パレスチナで生きて死ぬこと』アーディラ・ラーイディ/イザベル・デ・ラ・クルーズ写真/岡真理、岸田直子、中野真紀子訳(「シャヒード、100の命」展実行委員会、2003年)以下同】


 この本に登場するのは殺害された人々である。当たり前の話ではあるが、殺した兵士がいて、それを命令した将校がいて、軍隊を統制する政治家がいて、その政治家を支持するイスラエル国民が存在する。


 殺人の大いなる矛盾は、殺す者が殺される者の最期を目撃している事実であろう。本来であれば家族に看取られるべき死が、家族を奪う者によって見納められるのだ。引き金を引く瞬間のスコープ越しに、あるいはナイフや鈍器を振り下ろす影の下に、イスラエル兵はパレスチナ人の末期を見届けたはずだ。

 母親と話しながら、シャーディーは携帯電話の受信を良くしようと、宿泊していた家の屋根に上った。その時、大規模な攻撃を準備中だったイスラエル軍の兵士たちが、マシンガンをシャーディーのいる方角に向けて乱射した。母親と電話で話している最中に、シャーディーは何発もの銃弾を浴び、即死した。(シャーディー・アルワーウィー、21歳)


 間接的に殺されたパレスチナ人もいる――

 ガザのシファー病院で警備員をしていたサーミーの父親は、ローカル・テレビで少年がシャヒードになり、誰もその少年の身元確認ができないというニュースを見て、自分ならもしかしたら身元が分かるかもしれないと、病院の遺体安置室に行ってみた。そこで彼が見つけたのは息子サーミーの亡骸だった。サーミーの死後、母親は神経衰弱に陥り、ヨルダンの病院に移送され、11月10日に亡くなった。(サーミー・アル=タラームスィー、17歳)


 ページを繰るごとに死者の年齢は若くなる。そして、物語が美しくなればなるほど悲劇の度合いを増す――

 亡くなる前日、ニザールは小鳥を逃がしてやった。「小鳥の母親が、子どもがいなくなって悲しい思いをしているといけないから」と言って。(ニザール・エイデ、15歳)


 多くの奪われた未来を想う。私に与えられた現在と比較しながら。


「シャヒード、100の命」展