・虫けらみたいに殺されるパレスチナの人々
・銃弾が食い込んだままの教科書
・普段通りの暮らしを続けることが人々のインティファーダだった
・パレスチナ人は普通の暮らしも望めない
幼稚園の先生がパレスチナへ行った。彼女は9.11テロを見て、パレスチナ行きを決意する。というよりは、彼女の内部で何かが弾けて、そうせざるを得なくなった。運命か、宿命か、はたまた使命か。
普通の人の普通の視線で普通に書かれている。読みやすい。その読みやすさがかえって読者に戦慄を覚えさせる。
森沢はパレスチナへ入るや否や、あまりにも苛酷な現実を知る――
その時には、戦車はすでに村の全域を占拠していました。イスラエル兵士はモスクに入り、スピーカーを使って、アラビア語で外に出てくるように叫びました。我々は武器や銃は使わないとも言いました。
人々は外へ出ました。東から37台の戦車、10台の装甲車、3台のバスが入ってきているのが見えました。
次の瞬間、そのすべてが砲撃を始めました。女、子ども、犬も山羊も撃たれました。
息子のハリードは足を撃たれました。まだ生きていたので、私は助けにいこうとしました。
けれども私の目の前で、戦車が彼を轢いていきました。頭や顔や胸はすべて潰れ、道には跡形も残りませんでした。彼を助けようとして出て行った者は、容赦なく撃たれていきました。
私は泣き叫びました。それを止めようとして走ってきた親戚も、撃たれて死んでしまいました。
ムハマードは20発も撃たれましたが、まだ息はありました。けれども誰一人、彼を助けることも病院に連れて行くこともできませんでした。村の入り口はイスラエル兵によって完全に封鎖され、救急車だろうと何であろうと入れなかったからです。
たくさんの人がケガをしましたが、輸血のための血液が足りなかったので、みんな死んでしまいました。
ただ殺されたのです。私たちは兵士でもなんでもありません。
ただ来て殺したのです。殺して出ていったのです。捜査などありません。
ガザ南部から来ていたパレスチナ警察の幹部もその夜殺されました。彼はここで何がおきたのか見に来ていたのです。そして足を撃たれ、やはり病院に運べずに死にました。救急活動ができないので、足を撃つだけでも十分殺すことができるのです。
これは本書のクライマックスではなくイントロダクションである。そこには、「ただ殺される人々」を目の当たりにし、「ただ殺す人々」を黙って見つめる自分がいた。自我が崩壊する音が聞こえてくる。
イスラエル兵がやっているのは「パレスチナ人の存在否定」だ。パレスチナ人は「最初からいなかった」ことにするのが彼等の至上命題だ。約束の地はユダヤ人のものだ。彼等こそは「神に選ばれた民」なのだ。ヤーウェ(=エホバ)はモーゼに応えて、「私は在りて在るものである」と語った。
神は存在した。神の僕(しもべ)も存在した。その他大勢は虫けらみたいなものだ。神は天上に君臨し、地上のヒエラルキーを構成した。神との距離が善悪の物差しとなった。
「宗教は戦争の原因となる」――これは、ユダヤ教から派生したキリスト教とイスラム教に共通する土壌である。
平和な世界を実現するには、「神を否定する」哲学が必要だ。「神は死んだ」というのであれば、それ以前は生きていたことになる。神は端(はな)っからいない。いるのであれば、連れてきなよ。伝えないといけないことが山ほどあるからさ。
・シオニズムと民族主義/『なるほどそうだったのか!! パレスチナとイスラエル』高橋和夫