古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

狂気を情緒で読み解く試み/『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

『物語の哲学』野家啓一

 ・狂気を情緒で読み解く試み
 ・ネオ=ロゴスの妥当性について

『新版 分裂病と人類』中井久夫
『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル


 渡辺哲夫は臨床医である。本書において、統合失調症患者が発する言葉を情緒で読み解くという困難な作業に挑んでいる。情緒とは、世代間に営々と受け継がれてきた歴史ともいえる。


「まったく、ご苦労なことだよ」と思うのは簡単だ。「で、何の意味があるんだ?」と疑義を呈することも容易だ。渡辺が試みているのは、異質なものを自分の中へ同質化しようとする作業だ。これは苦しい。なぜ苦しいかというと、自分が変わらなければならないからだ。相手が存在する場所へ自分から歩み寄る苦闘といってよい。


 その苦労が、豊穣な言語として出現している。ここには異質を受容することで人間は豊かになる証左が示されている。


 狂気は死を志向する。コミュニティは狂人を受け入れない。狂気はあらゆるものを破壊し、意味を失わせ、実際に人を殺すことがある。冒頭で渡辺は本書のテーマを謳い上げる――

 死は謎である。いわゆる幽明界を異にするということ、生の絶対的な断絶が起こること、この出来事そのものは決して経験できない。これは確かなことだ。しかし、生き残る者はここで一切の思惟を永遠に停止するであろうか。この謎のまえで沈黙してしまうであろうか。そのようなことはない。死は経験できない。しかし生者は死者を経験できるからである。死と死者、ここには微妙な、だが決定的な差異がある。死という概念は、生者と死者の蝶番、さらに言えば虚なる概念のように私には思われる。蝶番を真正面から問うても、一旦界を異にした二つの世界は見えてこないだろう。私が問題にしたいのは、この二つの世界、この世とあの世の織りなす様相であって、蝶番そのものではない。死の謎は、生者たちの心情を支配し続けるであろうが、それ自体が解明されるはずもなく、解明される必要すらないと言いたい。少なくとも、この謎は哲学者に委託しておきたいと思う。
 私が問いたいのは死者たちの存在性格である。われわれは死者たちを思う。思うことは歴とした経験であろう。そして経験できるということは、死者たちが何らかの様式で存在するということにほかならない。死が存在するとは言えまい。だが死者は存在するのである。ここでは死と死者の差異をこれ以上論じるつもりはない。のちに詳しく考えることにする。ただ一言ここで予め指摘しておきたいのは、狂気が露呈したとき、以上に述べてきたような死と死者の差異が消滅してしまうという事実である。狂気は死者のみならず死そのものを経験するのである。それゆえ、狂気を論じる場合、“死と狂気”と記しても、“死者と狂気”と記しても、結果的には大差がなくなってしまう。おのれの死の経験と他者性の究極の存在性格を有する死者についての経験とが渦を巻いて融合し、逆転してしまう。


【『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫(筑摩書房、1991年/ちくま学芸文庫、2002年)以下同】


 眠りもまた自覚することができない。我々が眠りを意識するのは、常に目覚めた後なのだ。ゆえに「死は経験できない」という断言は重みを増す。我々が知り得るのはいずれも“他人の死”である。死は目撃されるが経験できない。


 狂気は“正気の死”を標榜している。本書に登場する患者は、精神が引き裂かれ、粉砕されたような観を呈している。生と死の境界が曖昧になり、自他の相違すらなくなり、全く新たな文脈で世界を創造し始める。これがネオ=ロゴスだ。

 私は少し論を急ぎすぎているようだ。
 死と狂気について今少し考えておこう。常人にとって、狂気は、それをじかに経験できないという点において、おのれの死と似ている。そして、さらに、常人はいつもおのれの狂気を内に秘め、その露呈を気遣い恐怖しつつ生きている。反論したい人びとは反論するまえに自己の心の奥底をよくよく凝視すべきである。この狂気隠蔽衝迫に追われている常人の姿は、死の影に怯えつつ生きている姿と酷似している。おのれの肉体の腐敗、おのれの精神の解体に対する恐怖は、あたかも通奏低音のごとく、人びとの意識の奥底で響き続ける。死と狂気は、自称正常なる生者たちの存在秩序の根柢を刻一刻とやむことなく浸蝕し続ける双生児のごときものなのである。死と狂気は、その肉体と精神に対する変容力のゆえに、さらに、その余にも親密であることに由来する不気味さのゆえに、相互に深く浸透し合っているのだ。
 それにもかかわらず、死と狂気を統一的な視点から見据えた学問が人間の学の中枢を形成してこなかったことは、事の重大性を考慮するならば、不可思議であると言わざるを得ない。
 死の問題は哲学に委託された。死者の問題は宗教に委託された。そして狂気の問題は医学に委託された。不毛な分裂、安易な分担が起こったのである。優れた文学だけが折にふれて死と狂気の問題に正面から取り組んでいるのが実情である。


 人間が持つ可能性という点から考えれば、狂気はマイナスの可能性といえる。マイナス要素は座標軸を中心にプラス要素の可能性を延長する。そして狂気は嫌悪の対象でありながら、人々を魅了してやまない。脳の新皮質の下では、万人が狂気の焔(ほのお)を燃やしているからだ。剥(む)き出しとなった純粋なるエゴイズム、本能の放出、仮面の下の顔――そこには劣悪な自由が存在する。


 驚くべきことに渡辺哲夫は、野家啓一と同じく柳田國男を手掛かりにして死を手繰り寄せる。生死こそは物語の最たるものであり、そこに因果という脚色が施される。


 柳田國男折口信夫を学ぶ必要がありそうだ。


人は自分の死を体験できない
死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人
身体感覚の喪失体験/『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』酒木保