レッテルを貼る人々/『初秋』ロバート・B・パーカー


 デタラメな両親に育てられたポール少年をスペンサーが自立させる物語。教育的要素が濃い。ひ弱な少年とマチズモの権化みたいなスペンサーのやり取りが面白い。

(※男性のバレー・ダンサーは皆ホモだと、なぜ両親は言うのか)
「なぜなら、その程度の頭しかないからだ。自分たちがなんであるのか。あるいはそれを見いだす方法を知らない、立派な人間とはどんな人間であるのか知らない、それを知る方法を知らないからだ。だから、彼らは類型に頼る」
「どういう意味?」
「つまり、きみのお父さんは、たぶん、自分が立派な男であるのかどうか確信がもてないし、そうではないかもしれない、という疑念を抱いているのだろう。そうでないとしたら、彼はそのことを人に知られたくない。しかし、彼は、どうすれば立派な人間になれるのか、知らない。だから、誰かから聞いた単純なルールに従う。自分で考えるより容易だし、安全だ。さもないと、自分で判断しなければならない。自分の行動についてなんらかの結論を下さなければならないし、その場合、自分が考えたことが守れないのに気づくかもしれない。だから、安全な道を選んだらいいじゃないか、と考える。世に受け入れられる回路に自分のプラグを差し込むだけですむ」


【『初秋』ロバート・B・パーカー/菊池光訳(早川書房、1982年)】


 敢えて断り書きを入れたが、この作品で菊池光は「バレエ」を「バレー」と書いている。いただけないね。


 世間が描くステレオタイプを鵜呑みにする馬鹿親の態度を、スペンサーは正確に表現する。「お前の親は愚か者だ」と言うことは容易だ。しかし、スペンサーは根拠と理由を重んじた。なぜなら、それこそがスペンサー自身の考えであり、自分の考えを伝えることが、両親に対する最大の批判となるためだ。


 社会に出て、大人になればなるほど、「安全な回路に自分のプラグを差し込む」ことが増える。清濁を併せ呑み、清酒とゲロを併せ呑み、濁り酒と痰まで併せ呑んでこそ大人と言えるのだ。そうしなければ、日本社会では村八分にされてしまう。農耕民族の悲しきDNAだ。


 スペンサーが持つ暴力性は、こうしたものを破壊する象徴に他ならない。私も暴力賛成派だ。


初秋 (ハヤカワ・ミステリ文庫―スペンサー・シリーズ)