古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

『芸術は爆発だ! 岡本太郎痛快語録』、『自分の中に毒を持て』岡本太郎

 ・『芸術は爆発だ! 岡本太郎痛快語録』、『自分の中に毒を持て』岡本太郎

狂者と狷者/『中国古典名言事典』諸橋轍次
意識変容の第一歩/『ニュー・アース』エックハルト・トール


 岡本太郎を20代で読んでいれば、私の人生は、もっと違ったものになっていたことだろう。今、深い感動と共に、悔恨の念が噴き上げてくる。

 誤解される人の姿は美しい。
 人は誤解を恐れる。だが本当に生きる者は当然誤解される。誤解される分量に応じて、その人は強く豊かなのだ。誤解の満艦飾となって、誇らかに華やぐべきだ。


【『芸術は爆発だ! 岡本太郎痛快語録』岡本敏子小学館文庫、1999年)】

 彼はこう言っていた。
「誰でも、『誤解されたくない』と言うだろう。『私はそんな人間じゃありません』なんて憤然としたり、『あいつはオレを誤解している』と恨みがましくめそめそしたり。
 だけど、じゃあ自分の知っている自分って、いったい何なんだい? どれだけ自分が解っている?
 せいぜい、自分をこう見てもらいたいという、願望のイメージなんだよ。そんなものは叩きつぶしてしまわなければ、社会とは闘えない。
 自分がどう見られているかじゃなくて、自分はこれをやりたい。やる。やりたいこと、やったことが自分なんだ」


【同書】


 人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。
 人生に挑み、ほんとうに生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身とも無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。
 今までの自分なんか、蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。
 ふつう自分に忠実だなんていう人に限って、自分を大事にして、自分を破ろうとしない。社会的な状況や世間体を考えて自分を守ろうとする。
 それでは駄目だ。社会的状況や世間体とも闘う。アンチである、と同時に自分に対しても闘わなければならない。これはむずかしい。きつい。社会では否定されるだろう。だが、そういうほんとうの生き方を生きることが人生の筋だ。
 自分に忠実に生きたいなんて考えるのは、むしろいけない。そんな生き方は安易で、甘えがある。ほんとうに生きていくためには自分自身と闘わなければ駄目だ。
 自分らしくある必要はない。むしろ、“人間らしく”生きる道を考えてほしい。
“忠実”という言葉の意味を考えたことがあるだろうか。忠実の“忠”とは〈まめやか、まごころを尽くす〉ということだ。自分に対してまごころを尽くすというのは、自分にきびしく、残酷に挑むことだ。
 ところが、とにかく忠君愛国のように、主君はたとえ間違っていても、主君である以上それに殉ずるとか、義理だの、仇討ちだの、狭い、盲目的な忠誠心ととらわれることが多い。
 だからぼくは、忠実なんて言葉はあまり使ってもらいたくない。
“実”にしたって、何が実であるか、なんてことは抽象的で誰にもわかるもんじゃない。意識する“実”はほんとうの意味での“実”じゃない。
“実”というのはそういう型にはめた意識を超えて、運命に己を賭けることなんだ。
 自分に忠実と称して狭い枠のなかに自分を守って、カッコよく生きようとするのは自分自身に甘えているにすぎない。
 それは人生に甘えることでもある。もし、そんなふうにカッコウにとらわわれそうになったら、自分を叩きつぶしてやる。そうすれば逆に自分が猛烈にひらけ、モリモリ生きていける。
 つまり自分自身の最大の敵は他人ではなく自分自身というわけだ。自分をとりまく状況に甘えて自分をごましてしまう、そういう誘惑はしょっちゅうある。だから自分をつっぱなして自分と闘えば、逆にほんとうの意味での生き方ができる。
 誰だって、つい周囲の状況に甘えて生きていくほうが楽だから、きびしさを避けて楽な方の生き方をしようとする。
 ほんとうの人生を歩むかどうかの境目はこのときなのだ。
 安易な生き方をしたいときは、そんな自分を敵だと思って闘うんだ。
 たとえ、結果が思うようにいかなくたっていい。結果が悪くても、自分は筋を貫いたんだと思えば、これほど爽やかなことはない。
 人生というのはそういうきびしさをもって生きるからこそ面白いんだ。


【『自分の中に毒を持て』岡本太郎青春出版社、2002年)】