読売新聞多摩版の「王がいた黄金時代」と題した記事。早稲田実業時代の王貞治をスケッチしている。
私は昔から、スポットライトが似合う長嶋茂雄よりも、どこかストイックな王貞治に惹かれてきた。
高校時代から抜きん出た素質があったようで、当時のチームメートが、「打撃練習の時、セカンドやファーストを守るのが怖かった」と語るほど打球は鋭かった。
勝ち続けたときも、決しておごらなかった。「負けたチームの気持ちになれ」が口癖だったという。王が甲子園に行けなかったのは一度だけ。最後の夏だった。都大会の結晶で明治高校(現・明大明治)に敗れた。王は、甲子園に出発する明治高に花束を持って行った。宮井(早稲田実業野球部監督)は、王をこう語った。「人格を兼ね備えた男」。
王貞治が中学の時のことである。試合に勝って皆で大喜びをした。家へ帰ると、試合を見に来ていた兄がこう言った。「お前は負けた相手チームのことを考えたことがあるのか?」と。それ以降、貞治少年は勝利に酔い痴れる真似をしなくなった。
私も中学時代は野球に明け暮れた。2年でレギュラーとなり、3年の時には札幌で優勝し、全道大会でも優勝候補だったが、敢えなく準々決勝で敗れた。2年の時、監督が変わった。この先生は早稲田野球が好きで、ユニフォームまで早稲田と同じものに変えてしまった。上記のエピソードを教えられ、徹底的にポーカーフェイスを叩き込まれた。試合中に笑うことは禁じられた。「勝負というものは、そういうものだ」と。
そんなこともあって、私はどうしてもサッカーというスポーツが好きになれない。ゴールを決めた途端、狂喜乱舞する姿がこの上なく愚かなものに見えて仕方がない。監督までがガッツポーズをするのは、どう考えてもおかしい。
剣道の場合、ガッツポーズをすると一本が取り消しになるそうだ。まあ、武道(殺し合い)とスポーツ(狩猟)を同列に論ずるわけにもいかないが……。
ガッツポーズに関して、時津賢児氏がこんなことを書いている――
今ではどこの国の選手もガッツポーズをやる。だが、その行為の主体的な意味は一様ではない。欧米人は他者との衝突的関係の中で自分を捉えるから、何事につけはっきり自己表現して生きるように教育されている。だから、彼らが勝利の喜びをあからさまな仕草で示すのは、モードでも何でもない。日々の生活様式そのままなのだ。アメリカの根強い人種差別の社会に生きる黒人のガッツポーズには、白人社会に対する示威の意味もある。新興国の選手は国家の重みを背負っているし、国際紛争中の国を代表する選手のガッツポーズには、隣国に対する示威の意味もある。日本人のガッツポーズとはニュアンスも中味も異なる。このように似たようなポーズをしても、主体性の内容には差がある。
フムフム、そういうものか。