・『狐の書評』狐
人は、自分が好むものを褒められ、自分が嫌うものを貶(けな)されると快感を覚えるようだ。
たまたま、ネットを渉猟していたところ、「狐」と名乗る匿名書評家がいることを知った。イエロージャーナリズムの代表選手といえる「日刊ゲンダイ」で健筆をふるっている模様。この手のメディアは私の嫌悪するところなので、知りようがなかった。
検索したところ、復刊ドットコムのこんなページを発見。丸山健二の『野に降る星』を褒めてるとすれば、何としても入手する他なかった。
文章はヒラリヒラリと蝶の如く舞い、該博な知識が顔を覗かせるものの嫌味なほどではない。晦渋(かいじゅう)な表現は退け、本に寄り添いながらも溺れることのないバランス感覚が光っている。ま、夕刊紙に掲載される書評だから、小難しく書くわけにもいくまい。いずれも、800字という土俵で、活字が風のように舞い、吹き抜ける。
それにしても、心憎いばかりの表現が多い。先ほど書き上げた、『となりのひと』を読んだのも、狐氏が書評で取り上げていたからだった。事前に読むと、影響されてしまうので、書き終えてから本書を開いてみた。
書き出しはこうだ――
破滅的なほどの狂気ではない。ほんの微量を抽出できるくらいの、ささやかな異常である。
そして、締めくくりはこう――
暮しに一滴の異常がしたたる。衣食住のすみずみに、気づかぬくらいに淡い色の、あるいは気づいてもあくまでルーチンな色彩の狂いがにじむ。
カアーーーッ、逆立ちしてもかないませんなあ(笑)。
丸山健二の『野に降る星』はこうだ――
情け容赦もない、がちがちに氷結したような文章だ。書きながら、作家は血くらい吐いているのではないか。
そして、「きつい、きつい」を連発し、この作品を音読で読むよう勧めて、こう結ぶ――
この荒ぶる小説は、黙って読んでへこたれたら負けだ。
本の選択は幅が広く、プルーストからイッセー尾形に至るまで、固かろうが軟かろうが、ムシャムシャと咀嚼している。これほどの知識がありながらも、ペン先は枯れてなく、むしろ壮(さか)んな印象が強い。ということは、容疑者から田村隆一は除かれる(笑)。私がまだ読んだことのない高橋源一郎か林望に当たりをつけていたが、両者の作品も取り上げられていた。胆力の強さが開高健を彷彿(ほうふつ)とさせ、ちょいと洒落た言い回しが向井敏を思わせ、視線の軽やかさが芥川喜好を想像させる。
殆どの書評に食指が動く。プルーストの『失われた時を求めて』(筑摩書房)なんぞは、一生、お目にかかることはあるまいと思っていたが、こんな文章を目にすると、「いつの日か……」などと妙な希望が湧いてくる。
翻訳完結にあたって、ある詩人は、「一気読みの好機の到来」と書いているが、それはどうか。一気読みで挫折するより、ゆっくり、ゆっくり時間を失いながら読みたい。小説に書かれた19世紀末フランスの小都市における主人公と同じように、読み手自身もじんわりと時間を失速させていく。この小説を読む快楽はそこにある。
いずれにせよ、どの書評も、何らかの興味や関心に火をつけることは、私が請け合おう。中にはハズレもあるかも知れないが、それはそれで、「狐に化かされた」と思えばいいのだから。
・山村修
追記
人気があるようで何冊か刊行されていた。以下に紹介する――