ランキングが生む現象と陥穽
このところミステリから離れがちだったので、後学のためと思って通読してみた。1988年(昭和63年)版が最初というから月日が経つのは早いものだ。因みにこの年のベスト3はというと、
【海外編】
1.『夢果つる街』トレヴェニアン(角川書店)
2.『推定無罪』スコット・トゥロー(文藝春秋)
3.『死の味』P・D・ジェイムズ(早川書房)
となっている。原籙のデビューから13年も経つとは……。
本シリーズは、ここ数年の間で市民権を獲得したようで、帯の惹句に「このミス第1位!」などと謳われることも珍しくなくなった。野次馬的な軽い内容が支持されている理由かもしれない。今や、内藤陳率いる日本冒険小説協会よりも影響力があるのではないか。
面白いのは売れるようになったらなったで悩む種は尽きないようで、
ここのリスト以外にも面白い本はたくさん存在するのだから、ランキングを盲信するだけでなく、読者それぞれが“個性ある読み方”を実践してほしいとせつに祈る。(1999年版)
などと高説を垂れている。まるで、偏差値をつけておきながら個性尊重を叫ぶ教師の姿を思わせる発言だ。この号には本誌の匿名座談会と笠井潔との確執も掲載されている。調子に乗った匿名発言が笠井の逆鱗(げきりん)に触れたらしい。編集方針の底の浅さが馬脚を現した程度の内容なので読む必要はないだろう。
そもそも毎年登場している池上冬樹・関口苑生・茶木則雄の3人が私は好きじゃない。この3人に薦められた途端、読む気をなくしてしまう。
などと悪し様に書いてきたが、収穫は一つだけあったのだ。1999・2000年版に出てくる中条省平(ちゅうじょうしょうへい)を発見したことだ。中条は学習院大学フランス文学科教授。「直木賞の選評にモノ申す!(2000年版)」と題したレヴューでは、ラストシーンの処理の仕方を問題視した委員の発言を紹介。
ラストの閉じ方が不親切である。(渡辺淳一)
作者はついに読者に幼女失踪の真相を明らかにしようとしない。その意図はどうであれ、作者は読者を欺いている。(井上ひさし)
これらの意見を「絶対的な真相を提示しないことが推理小説としての条件にはずれている、という留保である」とした上で、中条はこう斬ってみせる。
だが、こうした多義的な真実というテーマは、ミステリーの歴史のなかでパターンとして認められているものであり、それはロナルド・ノックスの『陸橋殺人事件』とアントニー・バークリーの『毒入りチョコレート事件』という奇跡的な大傑作を見ればわかるとおり、すでに1920年代(!)に確立されている。
桐野夏生は、意識的にか無意識的にか、このパターンに則りつつ、これを人間心理の不可知性というきわめて現代的な主題を問うために応用しているのだ。どれか一つの犯罪の解釈を絶対的な〈真実〉として提示することは容易である。だが、その安易さを棄てたところに桐野の作家としてのまなざしの深まりがあるのであり、そこを見ないのは、直木賞=娯楽文芸という先入観に、選考委員自身が囚われているのではないか。
また惜しくも受賞を逃した天童荒太『永遠の仔』については、それぞれの委員の批判を認めた上で(会話のぎこちなさ、図式的な物語など)、
この小説を長いと評した人は堪(こら)え性のない老人であることを暴露したにすぎない。
と一蹴。
1999年版では「傑作『レディ・ジョーカー』『理由』のここが残念!」と題した批評もためになるものだ。単なる好き嫌いで一刀両断するような姿勢は微塵もなく、優れたバランス感覚を窺わせる内容となっている。