『詩の中にめざめる日本』真壁仁

真っ当な言葉に込められた瑞々しい生命力


 力のこもった詩のオムニバス。つるはしを振るうように言葉が突き刺さってくる。経済の太陽に先駆けて、確かな黎明を告げる逞しい声がここにはある。以前、紹介した「便所掃除」も収められている。

 いつの日から か
 指は
 秋の木の葉のように
 むぞうさに
 おちていく。


 せめて
 指よ
 芽ばえよ。
 一本、二本多くてもよい。
 少なくてもよい。
 乳房をまさぐった
 彼の日の触感よ。


 かえれ
 この手に(「指」)


 作者は森春樹というハンセン病詩人。真壁がこの詩を評する。

 木の葉のようにむぞうさに落ちていく指をこともなげに描いている。その指がふたたび芽生えるのに、一本二本多くてもよいし、少なくともよいとはだれが書けるだろう。この凄い虚無感のうえに、「乳房をまさぐった 彼の日の触感よ」「かえれ この手に」という感傷がしみわたっていく。(31p)


 去る5月11日、ハンセン病患者の隔離政策が患者の人権を阻害したとして、国会の過失を含めた国の違法性を認める判決がおりた(熊本地裁)。「刈り込み」と称して、しらみつぶしに該当患者を探し、家畜同然にトラックの荷台に積載し、社会から隔離。劣悪な環境で強制労働をさせた。親がハンセン病だとわかるや自殺をした娘。ふるさとでは既に死んだ者とされ、骨になっても故郷に戻ることができない。治癒できる病でありながら、残酷極まりない仕打ちに終始した数十年間。無知が人間をかくも恐ろしい存在に変貌させる。


 乳房に象徴されたのは何だったのか。愛する女性か。はたまた、記憶の彼方の憧憬に立ち現われた母親の姿か。直截な言葉は、無条件で自分を受け入れてくれる温もりが直ぐそこにあった日を、切実なまでに渇仰している。五感の一つが侵されてゆく恐怖が「乳房」という語によって際立った翳(かげ)をそびえさせている。

 雲をける
 風をける
 光のしまをもつきぬける
 ぱっとひらける視野!
  生けがきのむこうに
  さっきおこったばかりのママが
  ミシンをふんでいる
  鶏小屋のうしろに
  タンポポが咲いている


 空の手に抱かれるたびに
 少女の眼はステキなものを
 とらえる
 子どもの背たけが
 すくっと、のびるのは
 こんなときではないかしら(「ぶらんこ」高田敏子)


 ぶらんこのスピード感が乗り移ったようなテンポ。それにも増して娘の眼から母の眼差しに転じる妙が、プロレス技のローリング・クラッチ・ホールドを思わせる。あるいは、土俵際で体(たい)が入れ替わったかのような鮮やかさがある。ここには、叱った者と叱られた者という対立は全くない。家族が崩壊する昨今、一幅の名画を見るような思いがする。


 子供の詩もいくつか紹介されている。

 キリスト教
「百姓も武士もおんなじだ」
 と教えた
 武士はたまげた
 武士が人間ならば
 おれも人間だと
 百姓がいった時
 武士の世の中 封建社会
 きっとこわれたろう(「宗門御改帳」菊地綾子)


 これは社会科の授業から生まれた詩。


 最後にもう一つ――

 動物のひげの根元には
 敏感な神経が配置され
 ひげを自在にうごかす筋肉がある


 人間のひげの根元には
 面目をつくろう神経が配置され
 威厳をたもつ筋肉がある(「ひげのソネット」有馬敲)


 ニヤリ。この詩人、昼間は銀行員をしているそうだ。もひとつ、ニヤリ。