近所の雑貨屋を出ようとした時だった。ドアのガラスの向こうに少年が現われた。ドアが外に開く作りになっていたので、私は少年が先に入るのを待つ格好になった。両手に荷物を持ったまま少年を見下ろす私。少年はドアを開けると、背中でドアを押さえたまま立ち止まった。彼の好意に気づくのに2秒ほどかかった。「ありがとな」。5月の太陽が私に降り注いだ。すかさず私は少年の行動を反芻(はんすう)した。あのような行動を何気なく実行できる背景を探った。
まず、両親の心根の好さが挙げられるだろう。あの年齢で「譲る」振る舞いができるとは見上げたものだ。彼はそれを家族の中で学んだに違いない。それは強制的な躾(しつけ)というよりは、両親の振る舞いから育まれたものだろう。なかんずく、お母さんが立派であると見た。
母親は少年が親切な行動をする度に「ありがとう」と満面の笑みを湛えて感謝したことだろう。更にその後に「助かるわ」「偉いわね」などと称賛の言葉を添えたはずだ。また、両親の間や、家族の間で、そうしたことが当たり前に行われていたものと私は想像する。
我が探究心は止(や)むことを知らない。つまりだ、少年の両親を育てた親、すなわち少年のお爺さんとお婆さんが出来た人物であることまで示しているのだ。
よき種は、よき苗となる。よき苗は、必ずやよき大樹と育とう。
件(くだん)の少年が立派な社会人となることは、私が太鼓判を押そう。