13年前、失意の底から喘ぐような思いで東京行きを決心し、故郷の北海道を後にした。両手で間に合う荷物を携え、文字通りこの身ひとつで再起を賭けた旅立ちであった。23歳、厳寒の2月、吹雪荒れ狂う14日のことである。
わずかな持ち物の中に2冊の本があった。数十冊の本の中から迷うことなく抜き取った2冊の内の1冊がこの作品である。
手探りで一歩踏み出した私は、胸中に不屈の闘志を点(とも)そうと、雪雲を見下ろす機中で貪るように読み耽った。
忘れようにも、忘れられない一書である。
物語は、1943年、ヒトラ−支配下のドイツ軍が翳(かげ)りを帯びてきた頃の話である。形勢を挽回したいドイツが特殊部隊をイギリスに送り込み、時の首相・チャ−チルの誘拐を目論む。白羽の矢が立てられたのは、懲役隊に追いやられたクルト・シュタイナ中佐率いるドイツ落下傘部隊。激戦をくぐり抜けてきた猛者達が、不可能としか思えない任務に挑む。
戦争という狂気と愚行のパノラマ――。
国家のため、との美名の元で個は抹殺され、自由など一つまみの砂ほどもなく、人間性すら自分で保つことが困難な時代。
その上、600万人といわれる罪もない人々を、徒らに銃の的にし、紙屑同然に焼き尽くした小男が牛耳る国家。
普段は善良な誰もが、諦め、怯え、叩きのめされ、ひれ伏した中で、彼らは誇りを失わなかった。彼等は気高い生き方を選んだ。彼等は崇高な人生を勝ち取った。
彼等は逆境の波が高いほど真価を発揮した。彼等は矛盾の風が強いほど信念を貫いた。
雄渾の筆致で描かれるドラマの基調には、戦争がもつ不毛さへの告発が脈打っている。
シュタイナは叫ぶ、
「かりに成功した場合、今度の作戦でイギリスからなにが引き出せるか、教えてあげよう。ゼロだ、無だ!」(159p)
瀕死の重傷を負ったゲ−リケが呟く、
「そう言えば、誰のために、なんのために戦っているのか、どうもはっきりしないな」(403p)
この計画の立案者であるマックス・ラ−ドル中佐は語る。
「この戦争では勝者はいないのだ。犠牲者しかいない。わたしたちみんなが犠牲者なのだよ」(428p)
ファシズムの暗雲たれ込める世界で信念を貫き通すことは死と背中合わせの行為といってよい。彼等は節をまげてまで命乞いをするような男ではなかった。
デヴリンが吐き捨てるように言う、
「おれの父親は自分の信念に従って戦い、彼らは父を犬のように扱って絞首刑に処した。あんたがチュニジアで失ったのはたんに片足だけだ、それとも、ほかに何か失ったのか?」(299p)
また、随所に散りばめられたユ−モアが物語の魅力を更に盛り上げる。
「うちの連中が攻撃を開始したら、お前たちは十分ともたない。もっと実際的に考えて、タオルをリングに投げ込んだらどうだ?」
「申し訳ありませんが、急いで出かけてきたので、タオルを忘れてきたのです」(479p)
アメリカの精鋭部隊に包囲される中でのリッタ−の発言である。
「非常に些細なこと」(157p)で作戦は左右されるとシュタイナは言う。実戦の中で培われた用意周到さは油断を許さない。小さなミスから作戦に齟齬(そご)をきたし、やがては戦局にまで影響を及ぼすこともありうるだろう。その逆もまた然なりである。
それを象徴しているのがジョウアナ・グレイとモリイ・プライアの二人である。
ジョウアナ・グレイは過去にイギリス兵より暴行を受け、その時からイギリスに対する憎悪を募らせる。病的にまで高まったその感情は数十年後、彼女をして一級のスパイにさせる。
一方、モリイ・プライアは、敵であることを知りながら、恋するデヴリンのために逃走を手引きする。
戦闘員ではない人々を敵にするのか、味方にするのか、ここに一つの動かしがたい明暗があることをヒギンズは示唆している。
最後の最後までたった一人になっても戦い続けるシュタイナ。絶体絶命の危地にあって彼はこう言う。
「しかもなお、おれは、やるだけやってみなければならない」(520p)
作戦の無意味さを誰よりも知悉していながら彼は走り続ける。狂った時代の大波に翻弄される中で、自分はこう生きた、自分は自分の人生を生ききった、と阿修羅の如きシュタイナの声なき叫びが私を撃つ。彼は敵をして
「たとえどのようにいわれようと、彼は、勇気のある立派な軍人であった」(541p)
と言わさしめる。何と美しい生き様なのだろう。
「ドイツのどこから彼らが出てくるのだろう、あのようなすばらしい若者のたちが? あらゆる危険を冒し、すべてを犠牲にするが、いったい、なんのためだ?」(517p)
誰もがこうした思いを抱くに違いない。彼等の存在は、不思議な美しさを伴って感銘を与える。
内藤陳が『読まずに死ねるか!』の冒頭で「ジャック・ヒギンズを知らない? 死んで欲しいと思う」と書いているが、これは決して大袈裟な話ではない。