片麻痺患者の体性感覚/『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』宮本省三

 ・リハビリ革命
 ・片麻痺患者の体性感覚

 脳血管障害で左右いずれかの半身に麻痺症状が現れることを「片麻痺」(かたまひ)という。昔は半身不随といわれたが、これだと下半身なのか左右なのかがわかりにくい。


 脳内の血管が詰まったり(梗塞性)破れたり(出血性)して何らかのダメージを負うと、身体機能が部分的に損なわれる。片麻痺患者の多くは嚥下障害(えんげしょうがい)や失語症を伴う。


 認知運動療法は身体イメージを把握することから始まる。では片麻痺患者の身体イメージはどういったものなのか――

 複数の脳卒中麻痺患者に、目を閉じて、自分の身体を感じてみることを要求し、その状態をより詳細に聞いてみる。すると、驚くべきことに、多くの患者が訴える身体空間は、いわゆる目に見える身体のような姿や形をしていない。
 まず、片麻痺の体性感覚を詳細に検査すると、身体各部の構成部分が何ヵ所も欠損している場合が多い。たとえば「足に触れる感触は踵(かかと)と足底の外側だけで、足の上部はまったくなにも感じない、また、足指は動かされてもまったく感じない」と訴えた患者がいた。「目を閉じれば足指の何本かが欠落しており、その先端のみ微かに存在している。下肢は膝から下が存在せず、足部は遠く離れていて、踵と拇趾(ぼし)の一部は存在しているものの、その他の足の表面は欠落している」と訴えた患者がいる。
 つまり、目を開ければ手や足の全体的な形態は確認できるが、目を閉じれば手足の欠損部分が何ヵ所かに分散しており、一つの形態としての全体性がないように感じているのである。そして、漠然と「白い霧がかかったようだ」と足部の現実感のなさを比喩(メタファー)に変えて訴えることが多い。


【『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』宮本省三〈みやもと・しょうぞう〉(講談社現代新書、2008年)】


 これはもう「人間MRI」といっていいだろう。患者が語る感覚は、まだらになっている脳の状態そのものと思えてならない。人間の感覚とはかくのように鋭く、正確なのだ。


 視覚イメージと感覚イメージとの乖離(かいり)――つまり、「見える世界」と「感じる世界」がバラバラになってしまっているわけだから、認知レベルでも心理レベルでも混乱状態に置かれているといってよい。そんな凄まじい世界で彼等は生きているのだ。


 昨日、買い物に行った。帰る道すがら私は左手に5kgの米を、右手には買い物袋をぶら下げていた。この状態が一生続いたとしたらどうなるだろう?

「ここに入ってこられる方は、病気やけがと闘って、脳に損傷を受けながらも生き残った勝者です。勝者としての尊敬を受ける資格があるのです。みなさんも患者さんを、勝者として充分に敬ってください」


【『壊れた脳 生存する知山田規畝子〈やまだ・きくこ〉(講談社、2004年/角川ソフィア文庫、2009年)】


 身体障害者は障害という極限状況を生きる人々である。その意味で健常者にとって未踏の険難に挑んでいる人々といってよい。しかし、資本主義に毒されてしまった我々の価値観は人間を、生産や労働でしか測(はか)れなくなっている。金の奴隷と化した人間からすれば、障害者はお荷物でしかない。


 明らかに間違っている。否、狂っているというべきだろう。我々の視線は既に人間を捉えることができなくなってしまった。技術や才能、自分にとって役に立つか立たないか、そういった損得勘定で人間を測っているのだ。質量×距離×時間だ。


「障害者のために何かしたい」という気持ちはもちろん尊い。しかし本当は、障害者に教えを請うべきなのだ。誰よりも生の厳しさと豊かさを知る先達と仰ぐことができれば、社会は幾分まともになっていることだろう。


脳のなかの身体―認知運動療法の挑戦 (講談社現代新書 1929) (講談社現代新書)