・我々自身が人生を短くしている
・諸君は永久に生きられるかのように生きている
・賢者は恐れず
・他人に奪われた時間
・皆が他人のために利用され合っている
・長く生きたのではなく、長く翻弄されたのである
・多忙の人は惨めである
・人類は進歩することがない
・『怒りについて 他一篇』セネカ:茂手木元蔵訳
・『怒りについて 他二篇』セネカ:兼利琢也訳
・時間論
これは文句なしに面白かった。古典、恐るべし。小田嶋隆がしばしば使う「なぜというに」ってのは、多分本書から影響を受けているのだろう。170ページ余りの薄い本だが、その辺の本が10冊くらい束になっても敵(かな)わないほどの衝撃を受けた。しかも、2000年前に書かれたものなのだ。人間の本質は変わらないようだ。否、文明の発達に伴って劣化しているのかも知れない。
しかし、われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費(ついや)されるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。けれども放蕩(ほうとう)や怠惰(たいだ)のなかに消えてなくなるとか、どんな善いことのためにも使われないならば、結局最後になって否応(いやおう)なしに気付かされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。全くそのとおりである。われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。(「人生の短さについて」)
人生は時間に支配されている。これに異論を挟む者はあるまい。では、その時間を我々は何に使っているのか。
以下は、総務省統計局による平成13年調査のデータである(※40〜44歳の全国平均)――
- 7.01 睡眠
- 1.09 身の回りの用事
- 1.32 食事
- 0.44 通勤
- 6.27 仕事
- 0.01 学業
- 1.56 家事
- 0.02 介護、看護
- 0.12 育児
- 0.21 買い物
- 0.27 移動(通勤を除く)
- 1.55 テレビ、ラジオ、新聞、雑誌
- 1.02 休養、くつろぎ
- 0.08 学習、研究
- 0.22 趣味、娯楽
- 0.06 スポーツ
- 0.03 ボランティア、社会参加活動
- 0.16 交際、付き合い
- 0.05 受診、療養
- 0.13 その他
合計すると、21.62時間となる。ま、トイレにだって20分くらいは入っていることだろう。それに風呂や歯磨きの時間を加えれば、大体24時間だ。それにしても、平均というデータは個性が欠落している。スポーツ0.06時間(3.6分)って一体何だよ(笑)。
今時であれば、携帯電話を使用している時間だって馬鹿にならない。で、このデータを見る限りでは、平均的な人は生きている価値がまるでない。間違いなくセネカはそう言うはずだ。これじゃあ、まるでビッグブラザーにこき使われる労働者の一日と何ら変わりがない。
セネカは「他人のために生きることをやめろ」と説いている。そして、普通に生きている人々を辛辣(しんらつ)にこき下ろしている。嘲笑していると言ってもよい。「他人から押し付けられた人生を生きて、何が楽しいんだ?」と言わんばかりだ。
人生を浪費する者は、魂を浪費しているのだ。そして、社会の中で自分自身までもが浪費される対象と成り果てるのだろう。
・奴隷根性を支える“無気力”〜ドストエフスキー『死の家の記録』より
・怒りは害を生む/『怒りについて 他一篇』セネカ
・余は極て悠久なり/『一年有半・続一年有半』中江兆民