書き出し部分が読みにくい。ワンセンテンスが長く、文章の行方がわからなくなる。リベラルな立場に固執してどっちつかずになるのが筑紫哲也だとすれば、客観を重視して不要な短所を盛り込んでしまうのが佐瀬稔だ。
佐瀬のノンフィクションはクライマーとボクサーを取り上げたものが殆どである。両者に共通するのは徒手空拳で限界に向かって突き進む壮絶な生きざまだ。まるで、死を目指して全力疾走しているような姿だ。「ダラダラと長生きするぐらいなら、死を感じ、死と闘い、死を乗り越えて一瞬でも輝いてみせろよ」――そんな彼等の声が聞こえてくる。
山男は不幸だ。彼等は生の緊張感を欠く下界では生きてゆけない。その一方で、世界の高峰を目指すとなれば、チーム内の政治に従わなければいけない。長谷川が天才クライマーの名をほしいままにしたのは、ヨーロッパ三大北壁(マッターホルン、アイガー、グランドジョラス)の冬季単独初登攀の成功によってであった。だが、8000m級となるとそうはいかない。
コンビで壁にアタックする様子が興味深い。怒りと嫉妬がないまぜになりながら、互いを罵り合う。山に友情はなかった。ひょっとすると、日本人の自我の弱さが露呈しているのかも知れない。
アルピニストの一歩一歩と我々の一歩一歩の違いは何だろうか。明らかなのは、誰でも歩けるような道を進む限り、生は輝かないということだ。
本書と『狼は帰らず アルピニスト・森田勝の生と死』を読んだ上で、『神々の山嶺』を読むことをお勧めしたい。