・『会議革命』齋藤孝
・『身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生』齋藤孝
・『息の人間学 身体関係論2』齋藤孝
「あなたの会社の会議は大丈夫か?」チェックリスト
(思いきりチェックしてください)
1.別のこと(寝ている、絵を描いているなど)をしていても大丈夫
2.アイディアを出さないくせに、人の意見にネガティブなコメントばかりする人がいる
3.一人の話が長くてウンザリすることがある
4.「それじゃあ、今までの議論何だったの」と思うことがある
5.判断材料がそろっているのに、「じゃあ、あとで考えよう」と大した理由もなく結論を先送りにする
6.何のために集められたのかわからないことがある
7.何も決まらなかったり、新しいアイディアが一つも出てこないことがある
8.人数が多すぎてディスカッションにならないことがある
9.意見の質でなく、声の大きさで決まることがある
10.“宮中御前会議”のように、役職順に座る慣習になっている
11.レジュメやホワイトボードもなく、議論が宙に舞うにまかせている
12.「はじめから結論が決まっているんじゃないか」と感じることがある
13.「報告・通達・確認ならメールですむのに」と思うことがある
14.報告や資料説明の時間が長すぎて、一番大事なことを話し合う時間が足りなくなる
15.意見を言うと、「じゃあ君がそれをやってくれ」と言われそうなので、意見をひかえる雰囲気がある
この15ポイントのうち、10個以上にチェックが入った場合には、会議の症状は末期に至っていると思ってください。
日本経済をダメにしている元凶のひとつは会議だ。
私は不毛な会議というものにとにかく怒(いか)っています。
何も生み出さない会議が日本には多すぎます。それに付き合わされていると、こちらの脳ミソまで腐ってくる感じがします。不毛な会議を平然と続けている人々を見るたびに、日本人は会議というものをまだ技化(わざか)していないと痛感します。欧米流の会議というものは、日本にはまだ根付いていません。
私自身が会議で一番不満に思っているのは、参加者一人ひとりの能力が会議においてフルに活用されていないということです。会議に自分の時間が奪われていくことが嫌なわけではありません。そうではなくて、自分のもっている能力が100だとしますと、そのうちの10以下しか使わなくとも、その会議には参加できてしまう。そのことが嫌なのです。
「日本的会議」の弱点はアイディアを出さない人でも偉そうにしていられるところにあります。
本来、会議において偉いということは、課題状況を乗り切る具体的アイディアを出せることを意味します。質の高いアイディアを次々に出せる人がその会議では序列が高くあるべきなのです。
ところが現実にはそうはなっていません。あらかじめ序列が決まっていて、アイディアを出せる才能とは無関係に発言権が分配されています。
そういう現実がなぜ延々と引き起こされてしまうのかというと、「会議はアイディアを生み出す現場である」という認識が共有されていないからだと思います。これをまずみんなで共有するところから会議革命は始まります。
報告・説明が延々とつづく退屈な会議で、私の隣の人は車の絵を描いていました。ほれぼれするほど上手な絵でしたが、それはじつに象徴的な光景でした。走りたいんでしょう。もっと自分の能力をフルに活動させて、走りたい。しかもその人は車を書くだけではなくて、タイヤから斜線を出して勢いを出して走らせていました。
「この人のこの埋もれていくやる気とエネルギーをどうするんだ、あなたは?」
と、会議の主催者に問いたい思いに駆られました。
会議の主催者は能力とエネルギーをそれだけ奪っている自覚があるのか。その責任をどう取るのか。
そういうことに感性のない主催者ほど、自分の話す量が多い。会議の主催者であるにもかかわらず、他の人の意見を上手に回すどころか、自分が話してしまう傾向があります。
日本の会議が不毛なのは、ひとつには会議の基本モデルが“宮中御前会議”になってしまっているからではないでしょうか。
普通一般に考えられている宮中御前会議のイメージが、全国津々浦々日本中のあらゆる会議に浸透しています。会議だけでなく結婚式などでも見受けられます。そこまで序列化しなくてもいいのにというぐらい序列化します。
見渡してみたときにそれは、「序列確認会議」にしかなっていない。
その会議では、座った時点で各人の発言の重要度は数値換算されています。下々(しもじも)というか、地位の低い人の意見は、その意見がどんなにクリエイティブであったとしても、かける0.1ポイントほどになっているわけです。それが地位が上がるにしたがって10倍、1万倍に発言の重要度も高まります。「結局それで決まっちゃうのか」と言いたくなります。