古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

丸山健二と『マタイ受難曲』/『虹よ、冒涜の虹よ』丸山健二

『メッセージ 告白的青春論』丸山健二

 ・丸山健二と『マタイ受難曲


 丸山健二の『虹よ、冒涜の虹よ』(新潮社)に出てくる『マタイ受難曲』を遂に聴くことができた。私が借りてきたCDは、カラヤン指揮、ベルリン・フィル・ハーモニーによる演奏である。検索して調べたところ、カール・リヒター指揮の方が遥かに好い出来のようだ。


 丸山は執筆中に大音響で音楽を鳴らすのを常としている。朝日新聞のインタビュー記事によれば、案の定『マタイ受難曲』を聴きながら執筆したとのこと。


『虹よ、冒涜の虹よ』は、天下を二分するやくざの大親分を手に掛けた主人公・真昼の銀次が、鄙(ひな)びた田舎に遁走するところから始まる。昔の子分だったマコトに導かれ、銀次は海岸沿いのとてつもなく大きな塔に匿(かくま)われる。追っ手を逃れた銀次だったが、夜な夜な木彫りの仮面と対話し、自身が行ってきた悪行をひたと見つめる。それからというもの、夜毎、死神が現れ、銀次を死へといざなう。ある日、マコトにそそのかされた銀次は、名人といわれた彫り竜に刺青(いれずみ)を入れてもらう。鮮やかな色が彫り込まれるごとに銀次の魂は激変する。そして、死神と対等に渡り合える力が満身に漲(みなぎ)る。


 ある日、銀次は彫り竜が住む洞窟へと招かれる。

「若い頃はあれこれのめり込みましたが、この歳になるともうこれ一曲さえあればほかに何も要らないですよ。まあ、そんな心境ですかね」
 そう言って彫り竜は、予備を何十枚も用意してあるというレコード盤の一枚をターンテーブルにそっと乗せる。針を一番最後の曲の溝に合わせる。音量を上げる直前に、銀次に念を押す。
 好みでなかったら遠慮なく言ってもらいたい。そのときはすぐにとめるから。
 しかし、そうはならない。
 大合唱が洞窟内に響き渡ると同時に、銀次の耳はたちまち魅了されてしまう。金縛りにでもあったように身動きできなくなる。息苦しさすら覚えるほどだ。
 洞窟からあふれた荘厳な響きは、人の声と楽器とが複雑に絡み合って、多重の放物線運動を繰り返す。
 その音波の軌跡は間違いなく真っ当な魂そのものが辿る道である。反復される主旋律は悪徳と正義の間隙を縫って突き進み、聴く者の卑しい性根を叩き直し、開眼の方向へと押しやる。
 これに比するものなし。
 聴くほどに心の痛みが薄らいでゆく。白と黒の際(きわ)やかな模様が胸のうちに広がって、魂の陰影がはっきりしてくる。そんな考えは通用しないという何者かの声が骨に徹するたびに、激しい動悸を覚える。
 断じて幻惑などではない。
 迷夢から覚める思いが五体に広がって、細胞のひとつひとつに染み渡る。銀次は打ちのめされ、それ以上聴くことが堪えられなくなり、居たたまれなくなって、思わず叫んでしまう。


 これが『マタイ受難曲』だった。第78曲の合唱である。


 銀次はCDラジカセとCDを一緒に手渡される。塔に戻り幾度となく『マタイ受難曲』を聴く場面が出てくるが、常に、肝を冷やし、魂を消し、忘我となる様が描かれている。かくも大袈裟な描写となると、これはもう本人の感動をそのまま言葉にしたといって間違いなかろう。


 耳に心地好い音楽ではなかった。こけおどしのような音響がゆったりと、うねるように流れ、突然、合唱が入り込む。尻のあたりがムズムズしてくる。全く耳にしたことがないタイプの音楽だった。あたかも黒板に爪を立てた時の音のように神経を逆撫でる。尋常な音楽でない。アジアとは全く質を異にするヨーロッパの顔がそこにあった。圧倒的な悲壮感と荘厳とがせめぎ合っている。パックリと開いた精神の裂け目から血が噴き出しているような曲だ。実に丸山らしいではないか!


 私は、第78曲『私たちは涙を流し ひざまずき』を何度となく聴いた。ライナー・ノーツによると、『マタイ受難曲』は新約聖書の「マタイ福音書」第26〜27章を台本の骨格にしているらしい。各パートは、バスがイエスの言葉、他の登場人物を各独唱者、群集や弟子達を合唱が表わしているという。


 仏教徒である私が聖書の詳細を知る由もないが、多分、イエス受難の物語なのだろう。歌詞の訳を見ると、イエスの墓前にひざまずき「安らかに眠りたまえ!」と呼び掛ける内容となっている。


 ああ、そうだったのか――。何十回目かで私は確かに理解した。


 丸山は小学生の時分「心にぼかっと風穴が空いた」という喪失体験をしている。音がしたというのだから、よほど衝撃的な体験だったに違いない。トラウマをその場で自覚したと言い換えてもよいだろう。


 この丸山の心の穴と、師を失った弟子達の心の空洞が共鳴したのだ。更に深読みを畏れなければ、銀次が起居していた巨大な塔は、横にすっぱりと切ってしまえば、穴そのものである。


 銀次が塔の中で『マタイ受難曲』をかけた瞬間を思う。古(いにしえ)のキリストの弟子達、彼等の悲嘆を理解し音楽で表したバッハ、そしてペンを執る丸山。三者が抱える心の穴が鼎(かなえ)となってシンクロした時、穴は人類が抱える闇そのものを象徴したのではなかろうか。


 ラストで光彩陸離たる虹が天空に刷(は)かれる。穴の暗黒をはね返そうとする丸山の無意識が生んだ夢を見ているようだ。


 

マタイ受難曲』関連リンク


 amazonに注文したものが今日、届いた。3枚組で5811円也。もちろん、カール・リヒター指揮の作品。1958年録音。リヒターはこの時、32歳。