古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

時代の現実を見据えた日蓮

岸田●我々が「見ていない現実」というのは常に、都合の悪い、見たくもない現実ですけれども、その折々の「見たくない現実」というのは、時代によってそれぞれ内容は変わっているとは思います。日本だけではありませんが、とくに日本という国はいろいろな現実を隠蔽して成り立ってきた国ではないかと思います。都合の悪い現実を見ようとする動きもむろんあるわけですけれども、隠そうとする動きもあって、見ようとする動きと隠そうとする動きが対立抗争してきて、むしろ隠そうとする動きが優位に立っているのが日本の歴史だ言えると思います。また、隠そうとするいう動きも別にまとまっているわけではなくて、いろいろな隠し方があり、あっちの人が見ていることをこっちの人は見ていない、こっちの人が見ていることをあっちの人は見ていないというようなこともあるわけですね。現代という時代を、日本人がいちばん見たがっていない現実とは何かという観点から見るならば、この時代の歪みというか閉塞状況といいますか、この時代には何かよく分からないようなことがいっぱいありますが、そういうことがいささか見えてくるんじゃないかと考えます。(中略)


石川教張〈いしかわ・きょうちょう〉●いまの岸田さんのおっしゃった発言の内容からいくと、やっぱり危機感をどういうふうに受け止めるのか、あるいは持つのかという問題だろうと思います。日蓮の時代は、いまも言われたように末法への意識が非常に強いものがあったし、現実に飢饉だとか、疫病だとか、地震とかが起こり、「生と死」というものが非常に現実的に、絶え間なく起こっているというところがあるわけですね。そういう意味では苦しみというのが抽象的なものではなくて、まさに死体が町中にゴロゴロ転がっている。そういう現実が絶えずあるわけです。そういう意味では、いつ死ぬか分からない。そして、もちろんそれによって家庭が崩壊する、親子、夫婦が途端に離れ離れになるといったような厳しい現実が眼前にあるということですね。そういうなかからの末法意識というものが、非常に強くあったのではないかと思うわけです。
 そのなかで、いったい人間というのはどういう点に心の置き所をおくべきなのか。そういう問題が絶えず問われていたんじゃないかと思います。いわば現代的に言うと、これは岸田さんのご専門ですけれども、まさに行動基準、あるいは人生の指針というものをどこに置くべきなのかということが絶えず問われていたということですね。
 そのなかで、日蓮の目というのは絶えず現実に注がれている。


【『ものぐさ社会論 岸田秀対談集』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(青土社、2002年)】


ものぐさ社会論―岸田秀対談集 (岸田秀対談集)